ドッペル原画展

天国


どうやって予定時刻より早く帰ろうか考えていた。帰宅予定時刻は21時半だったが、21時には帰りたかった。こういう時、何故我々は時間に縛られ時間に従い時間と共に過ごしているのかその起源にまで不信感を募らせ、最終的に私の頭には「(時間が消えれば)待ち合わせくらい一年遅れても誰も本当の意味で怒ることはない」という仮説が浮かぶ。時間が消えれば待ち合わせが出来なくなる可能性があるが、時間が消えれば待ち合わせなんて一年程度遅れてもそれが長い期間なのか短い期間なのか分からないのだから。いつか会える人間が存在する。それが一年後だとしても、あと100回分のお昼寝を経た後でも、いつか会う約束をしたなら、その事実だけで明日を生きていける様な世界が良いと思う。だから帰りますね。時間を気にしている時間は無いので、先に帰らせて頂きます。と思い、帰ろうとした瞬間に嫌な音をたてながら電話が鳴った。

受けた電話の向こうにいる人の話し方が怖かった。呂律のまわらない、声、笑いのない、奇妙な間、そして女はもごもごと声を発しながら、徐々に言葉をはっきりと言うようになった。彼女は要約するとこの様なことを私に話した。「不条理とか無いと思うんですよ。何1つ悪いことをしていないのに脱線事故で死ぬとか、地下鉄サリン事件で死ぬとか、通り魔に刺されるとか、そんなことありえるんですかね?人は神様に殺されるんですよ。キリスト信者は誰も不条理なんて信じませんよ。だから、貴方が不幸なのは、貴方自身の問題です。例えば、貴方と同じ境遇にいる人間が貴方と同じ類の不幸を背負う事も、貴方と同じ類の幸せを注がれる事も、有り得ないですよ。でもね、僕らの言うことを聞けば、貴方がどれだけ罪を侵しても、神様から守ってみせますよ。」

まず、あなたは男性だったのですね。ということである。あるいはこの電話をしているのは女性であるが、団体の幹部が男性である為、あえて"僕ら"と言っているのかもしれない。私は色々言いたいことがあったが「不条理は無い」という意見に概ね賛成であった為、あなた方の言うことを聞きます。と答えてしまった。そうすると、女は鼓膜が破れそうな程大きな声で「怖い!」と叫び、電話を切った。大きな音を立て、受話器はあるべき場所に戻された。

もう21時半を過ぎていた。普通に生きているだけなのに、何故こんなに傷つけられるのか分からなくなってしまう。しかし、変な電話が来るのも私自身の問題で、不条理でもなんでも無いことだった。私があの時に侵した小さな罪が、今この電話と女の言葉によって返ってきただけの話なのだ。この先も普通に存在しているだけなのに、他人に刺され、言葉で、行動で、深く傷つけられるのは、私が過去にした行いがそれによって返される行為に過ぎないと思った。この様な罪の返報は、あらゆる人間に起こる出来事なのである。何の防御もなく、世界に柔らかいまま曝されるという孤独だけが、全員に平等に与えられ、初めから決められた不幸だからだ。私達は永遠に守られることは無い。それでも自分の柔らかさというものを、自力で無くしていくことは出来るだろう。それは、柔らかいものに何かを重ね付けて、守るように防御するのではない。柔らかいものを自力で剥いで、その中にある芯のような、固い部分だけを残すのである。それが私の、他人に傷つけられる程人間は強くなれるという事象のイメージだった。昨晩、他人に傷つけられたせいで少し剥げてしまった柔らかさに自ら手をかけ、完全に剥いでしまおうと思った。しかし、芯に届くまではまだ少しかかる様だった。

柔らかさを損う夜を何度も繰り返し、命が完全に固くなったら天国に行きたい。自分が心を許した人間のみと寂れたイオンでかくれんぼをしているような。人間達の姿は永遠に見つけられない。其処に居ることだけが分かっていて、永遠に目は合わせられない。天国ってそんな場所だと思う。これは私が考えている、時間の無い世界と似ている点である。居るのが分かっているのに会えない、約束はしているのにいつ会えるのか分からない。私はそういう世界が好きなのである。あと12回傷つけられたら天国に行きたい。一生会えない大切な人達の存在だけを持っていき、寂れたイオンで永遠にかくれんぼをする。でも、実際は一人きりでかくれんぼをすることになると思う。そして私は予想もしなかった場所で、間違えてしまったかのように他者を見つけてしまうだろう。その人は最初から隠れるつもりなどなく、そもそも私とは異なる設定の天国に居た誰かである。そうやって他者の天国と自分の天国が混ざり合うその境界だけを求め、そこに留まり続けたいと密かに考えている。その他者こそが、一番大切な存在であってほしいと願うばかりだ。住む世界が違っても会える他者だけが、私に必要な誰かになる。

住む世界が違う人なんて何を考えているのか分からないですね。と問いかけると、自慢気に、何も考えていないし何かを考えながら生きている人なんて居るのかなあ?と言われる妄想をしていた。誰かが私にそう言いながら自身の柔らかさを欠いた瞬間を、作品として見たような気がした。まるでそれは不自然な死体のようだった。死んでいるのに、生きていて、生きているのに死んでいた。不自然に歪んだ「同じ記憶(内容)」が100回程度繰り返され、そのどれもが「違う文章」で描かれていたのだ。それは苦しみに執着する底の無い狂気であった。私は、怖いと思い、あの電話の女性のように、叫べそうな気がしていた。そしてその恐怖は現実世界に居る他人の名前になり、ずっと私の頭の中に、心臓の中に、留まり続ける事になったらしい。その恐怖がいつの間にか、TVに浮かぶ人間の名前の中に消えていったりすれば良いのに、と思う。知らない名前の中学生が死にそうになっていたが、私の他人であった。私の頭や心臓から離れない「執着する恐怖」が、彼女の名前に塗り替えられてしまえば良いのではないだろうか?と思ったのだ。

 

「時々、他人の多数が、社会の一つに見える事がある。傷付けられた他者は別の人であっても、同一の人間に傷つけられる様な、、、そういう感覚がある。大きくて恐ろしい存在がずっと側にいる。その存在は私以外の他者全員が含まれていて、バイト先で嫌な事を言われて傷ついた事も、幼い頃親に言われた酷い言葉も、全てがその大きな存在から、同じ所から、向けられた凶器に感じる。だから、本当はその大きい存在からたった一人だけを引っ張る事がずっとしたくて、そうするにはまず大きい存在の中がどうなっているのか探る必要があるから、私はずっと線路の上で待っている事にした。でも待っていたら大きな恐怖が目の前から迫ってきて、だから急いで逃げたの。」

 

恐怖や執着を向けられながら、一体何処へ逃げたのだろう?私は居場所が無いから初めから何処にも逃げることが出来ない。それなのに居るべき場所を探す時にはいつも何かから逃げるみたいに早歩きで、焦っているから人が見えない。すれ違った人の存在も、聞いたはずの言葉も、何も覚えていられなかった。まるで天国みたいだ。会えない誰かの気配の中で永遠に一人きりでかくれんぼをしている。しかしそれは、吐き気のする勘違いで、私は、誰もいない場所で、誰かに見つけられる可能性もないまま、永遠に一人でかくれんぼをしているのかもしれない。会えない誰かの気配など無く、多数の死体の気配だけに囲まれ続けているような気がする。そこから抜け出そうとして少し歩く。そうすると予想もしない所で他者を見つけ、見つけられる。死体よりも怖い他者が其処で待っている。それでもなお、私は天国が混ざり合う境界を求めている。天国に堕ちたい。怖いくらいに幸せになりたいのだ。

 

 

DOWN TO HEAVEN

DOWN TO HEAVEN

 

喪失

細い道の向かい側から、部活動合宿帰りの団体が歩いてきて、僕は細い道の向こう側へなかなか進めなかった。それは永遠に往来し続ける羊の群れで、細い管の中を何千年もかけて行ったり来たりする儀式の様に見えた。僕はその儀式を邪魔しない為に、約8分間、群れが通りすぎるまでずっと待っていた。長い時間だった。遠くで遠くて近いような夕日だねと少女が叫んでいた。それはインスタに投稿する為の、単なる余興的偽精神疾患だと気付くのに、僕は一秒もかからなかった。

家に帰ると、先程まで抱えていた花束が消えていることに気付くのだった。恐らく、すれ違い様に羊の群れに盗られたのだろう。僕は酷く落ち込んだ。新作のanelloのリュックと大瀧詠一のレコードを我慢して買った花束だったからだ。あんなに欲しかったそれらを、何故我慢したのだろうか。何故、と考えても思い出すべき事が何も無いように感じ、今では花束よりanelloの新作リュックと大瀧詠一のレコードで頭が一杯になっている。どうやら僕が盗られたのは花束だけでなく、花束に付随する全ての意思であった。あるいはそれは、花束を渡そうとしていた何かや誰かの死でもあった。付随する全ての意思が失われ、殺されていたのだ。花束を何処で買ったのか、買った後誰に渡そうとしていたのか、何一つ思い出せなくなったのだ。………僕は村上春樹の読みすぎで、生活に何か不思議なことを求めているように日頃感じていたので、明日の朝病院に行くことにした。

医者は僕のこの症状について「精神的な乱れ、もしくは虫歯ですね」と言ったので、医者に向かって今朝買ったばかりの銃を向け、人を撃つまでの発作的な心理状態を欠いたまま、医者の頭を撃ってみたりした。簡単に倒れた医者の向こうにある棚には、患者のカルテと、僕の花束があるような幻覚が見えた。その幻覚の後ろ側にある、小さくて柔らかい枕のようなものにピラミッド型に積み上げられた錠剤を見た。そしてそれを指先で崩していった。僕はその中から無作為に27個の錠剤を取り出し、スーパーの袋に入れたのだった。

幾つかの錠剤をいれた袋は、僕には重たすぎた。重たい銃も共に入っているからだ。あとどのくらい道は続くのかと遠くの方に目を向けると、群れがこちらに迫ってくるのが分かってしまった。今度は皆弓道部であるらしく、弓を抱えている。矢はどうやら僕に向けて。羊の群れだ、と思った時、どうしようもない不安が僕の喉までせりあがってきた。これは、あの時の不安に似ている、と思った。僕が誰かに裏切られた時、裏切られた事が自分の存在の全ての終わりのように思えたせいで、生命がどんどん脆い醜いものになっていく瞬間の、あの、感覚そのものだった。怖い人が大勢いる果てしなく広い場所に、何一つ包み隠さず、脆く柔らかくなった物体のまま、曝されるような、孤独な不安だった。

不安は喉元から飛び出て、僕は嘔吐してしまったのかと思ったが、実際には嘔吐しておらず、彼らの矢が僕の喉元に刺さる瞬間を、冷静なまま認識してしまっていただけだった。刺さった瞬間、ふっと腕から重みが消えていく気がした。此処は失う管であった。僕に向けられた矢は僕に本当に刺さり、体中が血だらけになっている。しかしそのまま、僕は今駅に向かって歩いている。なぜなら、孤独な不安を感じていても、僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、不安が分裂し、僕一人が経験する不安が錠剤一粒よりも小さいものになっていたからだ。その程度の不安であれば、僕達は駅に足を運ぶことなど容易であった。

僕達は最近新デザインとして店頭に並んだanelloのボア付きリュックに、GUのスキニーを履いていた。コーチジャケットは女からもらったギャルソンのコーチジャケットで、シャツはメルカリでかったMHLのノーカラーシャツだった。実を言うと、僕達はシャツはフィリップリムのものを欲していた。「でもブランドなんてどうでもいいんだけど」と言いながら管の中を往来していた。最後尾の僕は僕達の往来を体感で約20時間待ってくれていた羊に礼を言った。しかしながら実を言うと、僕達は羊に意思を欲していなかった。「言葉が話せないのだから往来を待つという行為で何が失われたのか君達には分からないだろうね」と思っていた。しかし、僕達が意図せず羊から盗んでしまったのは、一人で抱えきれないほどの大きな不安だった。

破壊

 

 全てを"ぶち壊す"といった出来事が日常には多々あり、壊す対象が何であろうとも、その出来事は強力な破壊力を持っている。壊された側の空間に居た自分や、そこに含まれていた時間は二度と元には戻る事はない。その時の状態がそっくりそのまま現れ、再考される機会すら永遠に訪れないだろう。

だから、全てを"ぶち壊す"というのは、圧倒的な罪であり、其処にあったはずの空間そのものを奪う出来事なのだ。それでもなお罪が裁かれないのは、破壊する罪は自分が自分に対して犯す事が大半であり、自ら望んで罪を犯しているような気がするからである。望んだ罪、望んだ破壊であるならば、当然裁くにも裁ききれない。

妄想を壊す更なる妄想、現実を壊す更なる現実、過去を壊すそれ以上の過去、それらが積み重なり何度も傷付いた妄想や現実や過去は私が破壊をした罪と共に体の中に永遠に残っている。つまり、これからの生活は破壊され尽くされた様々な時系列の層が、何度か作り替えられ、そしてまた同じ様に破壊を繰り返すだけなのである。それに加え、むしろ妄想は現実に壊されるし、過去は現在に、そして現在は過去に、未来は現在に破壊されていくのが大抵のありふれた生活であろう。

妄想は現実に壊されず、過去は現在に壊されないような仕組みがシステムとしてあったらよかったのだが、そうもいかず、今日も妄想は現実に"ぶち壊され"、現在は過去に"ぶち壊され"ている。私が一番苦手なぶち壊しが「快感」である。ゆるやかにリラックスした現在の中に突然快感が現れたら、全てがどうでもよくなってしまう。妄想の中に感触や温度や痺れのある現実の快感が生まれたら、あるいは現実のなかに何の感覚も持たない快感が生まれたら、そこにある空間は乱れ壊れていくのだ。考えてたことが流され、思考が快感だけになる時、何度も壊れた現在の層が、妄想に破壊される感覚が襲ってくる。

 

 私には夢見る時に思い出される"ぶち壊し"がある。それも、ただの破壊ではなく、一種の快感を孕んでいる可能性のあるぶち壊しだった。それは小さな暗闇の中から少しずつ始まる映像であり、壊される時は、最後に見えた光景が一枚の写真のように堅く守られている。

私と彼の間には腕で抱き抱えられる程度の小さな暗闇がある。寧ろその小さな暗闇しか存在せず、私達の周りには何も居ないと思える程だった。暗い山に囲まれた道を登りきり、コテージの前に集まった小学生達の中に私達は属していた。小学生達は課外学習の最中であり、キャンプファイヤーの準備の為、規則正しく並んでいる。私達もその一員の筈だったのに、その時には私と彼は少しの暗闇をお互いに抱えあい、それを透かしながら言葉を交わそうとする雰囲気があった。

小さな暗闇が波打つ様にうねった時、彼が私に「なんだか足が痛くて、どうしよう」と耳打ちをした。私は一応心配しているふりをして「大丈夫?怪我?」と聞いた。彼は原因は分からないけれどとにかく痛いんだ、ちょっと足を見てくれない?でも此処だと周りに人が居るの"かも"しれないから、向こう側で足を、懐中電灯は僕が持っているよ、と言い、私の手首を強く掴んだ。小学生の集団から遠く離れた林の中、彼は気分が悪そうな顔をして座り込み、早く見てよ、と言った。その時私は訳もなく緊張し、手が震え、彼の体操服を捲る事が出来なかった。それは恐らく、何故彼が暗闇に連れ込んだのが私なのか、そして何故具合の悪いふりをするのかが分からなかったからだ。そんな私を見た彼は次第に苛立ち、呼吸が荒くなる様子を大袈裟な素振りで見せた。そんなに苦しいのか、そんなに怪我が痛いのか、何故そんな嘘をつくのだろうか。私は彼が嘘をついている事は分かっていたが、その場で用意された「彼が病気」という重苦しい設定に圧迫され、そして洗脳されたように彼の病気を早くどうにかしなければならないと心臓の鼓動が早くなり始めた。彼の足は、今にも腐り、溶け出し、血が流れ出す寸前だったのだ。

「保健の先生呼んでくる!」と言いコテージの前へ駆けようとすると、彼が目を見開いて見てよ、と静かに言った。

 

痛い、病気かもしれない、

と言いながら彼は自ら体操服を捲り上げようとしていた。その時の顔は完全に笑っていて、私と目が合うとさらに笑った。その粘着性のある濃い表情で私の現実は少しずつ破壊されていく。笑った顔を誰かが殴りはじめ、顔の形が無くなるくらいに壊されると、崩れた肉片から新しい口が生まれた。その大きく赤い口は耳の辺りまで裂け、そして再びにっこりと笑う。捲り上げられた足の色はなぜか真黒であり、時々皮膚の色が奥から覗いているらしかった。なぜこんなにも色が変化するのだろうと考えていると、彼の足に歪な凹凸が出来ているのが分かった。その凹凸は彼の足を上へ行ったり下へ行ったりし、予測不可能な曲線、あるいは円を描くように、あてもなく彷徨っていた。しかしそれは、単なる動きではなく、何かが彼の足を侵食し、貪りつくように、激しく、そして気味の悪い蠢きだった。

 

彼の足には無数の黒い芋虫が張り付いていたのだ。その風景で映像は終わり、次には瞬間が閉じ込められた写真になる。彼が無数の虫に身体を犯されている瞬間の写真だ。その写真が頭に浮かび「彼は何故それを私に見せたのか」を考えた瞬間の、自分の頭のなかで起こった回転にこそ、快感が含まれている。そして、その回転の遥か前にいた自分や時間は元に戻らず、破壊されてしまうのだ。この映像と写真にぶち壊される前に、私が考えていたのは一体何だったのだろう。覚えているのに思い出せないような、覚えているのに思い出したくないような気持ちになるのは、この圧倒的な破壊力のせいだった。「普通の日常」というのは、圧倒的な破壊力に壊されるべくしてあり、そしてそれらに侵食され、私にさえ忘れ去られてしまう事柄のことなのかもしれない。

 

私が考えたのは「彼はもしかしたら私が彼を"気持ち悪い"と思うことが目的で、気持ち悪がっている私を見たかったのではないか?」という事だった。そして、その様に考えて自らの足を差し出し、貪られる事を選んだ彼の事を考えると何故だか気持ちよくなる事に気付くのは、いつも破壊の後だった。気持ち悪がられることが気持ちよい彼と、気持ち悪くなることが気持ちよい私の精神的な関わりは、今でも日常の中に破壊する快感として、夢の狭間に現れている。

 

気持ち悪くなれば気持ち良くなってくれる人がいる世界が、とてつもなく不気味だった。しかし、自虐的な身体の晒し、性の歪み、間違えた方向へ伸びた男性的な強さに対して、愛や母性を感じるということ、そして「不気味」「恐怖」「異常」を感じ精神的に傷付く見返りに、相手が快感を感じて"くれる"のが嬉しく、傷付いた痛みが異常なやり方で治癒されていく感覚に少しだけ満たされたのだ。彼は、私がこのような感覚を感じやすいということを、見抜いていたのかもしれない。あの時、初めて彼の為に彼の事を気持ち悪くなった時、彼と私が抱えていた少しの暗闇が弾け、回りの空気に溶けていった。彼は「好きだよ」と言っていた。

 

水辺

骨から血が出ることはありえるのだろうか?
痛みもなく、怪我の気配もなく、血の出処もないのに、足首の骨から血が止まらなくなっている。急いで日陰に入り、ハンカチで拭った、止まらない血が怖い、こめかみが痛む、丁寧に溜息を吐いて、視界が曇ると、なんだか一気に死が近くなる。


死が近い時は夢で見た大きな月の光を思い出す。紫色と青色の光が反射する細い川の上、浮かんだ小舟から大きな月を見ていた。枝垂れ柳が頭に触れていた、枝垂れ柳が頭に触れている私を私は眺めていた。この景色を、夢の中を、誰も知らないという事実に私はいつも驚く。夢は正真正銘自分だけの秘め事だと思っていた。自分だけの夢、その中でしか人は独りになる事が出来ないとすら。自分以外の誰もが知らない、あの大きな月の光を映像にしてみたい。そう思ってなんとか夢を映像にする。完成した秘め事を君に見せたら言われるのだ「これどこかで見たよ、どこかで、そうだ、映画の景色だ。僕の大好きなシーンだよ」夢は記憶の中で作られる。自分だけの物なんてこの世に何一つ存在しない。思い出も、自分だけの世界も、全ては他者との共有物だ。一つだけ独占できるのは、自分の体内にあるものだけである。血だけ、血そのものだけ。

痛みも無く足首から血が滴るのを見ている。意味の無い血液、痛みの無い血液、血が止まらない皮膚の表面を指先で触れても血液の原因が見つからない。何の為の血なのだろうか?痛みも原因も怪我の気配もなく、ただ血が突然骨から皮膚を通して湧き出てくる異様な状況が、とても大変な事に思えて、いつもの不安定が始まってしまう。終わりが近くなって、急に始まりも近づく。それは、死が近づいて、生が近くなるのと同じ事だった。全部同じに見えた。生も死も、良い事も悪い事も、好きも嫌いも、全部が同じなのだ。スマートフォンが重い意志で、治りかけの感染症がまた熱を帯びて喉元を溶かしていた。身体の中で地震が起こっているみたいに揺れる感覚と一緒に、私だけの血液が私から意味も無く出て行く様子を見ていた。私の中から私が出ていき、少しずつ居なくなっていく様子をただ眺めていて、視界の中では逆さまになったペットボトルからの水が足首を濡らし、水滴が垂れる映像があった。地面には小さな水たまりが出来上がり、水辺は少し赤く見えていた。


夢の中を誰かと共有したいという気持ちは、内側に秘めている自分だけが知るそれを、開放させたい気持ちと似ている。結局しかし、夢は自分だけの物では無い場合が多い。私が見た大きな月の光の様に。誰にも知られてはいけない類の異常な気持ちを敢えて見せつけ、気持ちが良くなる不純な行為は、夢では体現出来ない事が殆どなのだ。ならば、血ならどうだろう?血液という唯一自分が独占できるそれが、勝手に外側に出て行ってしまうのは、不純な行為に似ているのだろうか?私の中にある秘め事が開放される、誰にも知られてはいけない類の感情が血に混ざり身体の外へ逃げていく。その様子は私の中に私が居ないと感じる原因に結びつき、簡単に私を混乱させた。感情が溶けた水辺を指先で掻き混ぜ、何もかもが汚いと思った。

何もかもが汚く、そして不純であり、正しい順番や大切にするべき物事の並べ方と順位付けの方法が分からなくなっている。何もかもが汚いのに何もかもが眩しく見え、全てを大切にしたいと思えば思う程、全てが全く大切では無い物だと勘違いしそうになる。部屋の明かりすら眩しくて目が壊れそうになり、目を閉じながらここ最近の感情は否定されるべき物だったと思い返している。何かを感じる事が罪になってしまう気がし、39度の熱が出ても何も感じないまま救いを求めた。沢山の感情を詰め込んだ人々、人の気配が私を一番混乱させてしまうのだ。混乱、罪が怖い、取り戻したい、内側から逃げていった血液と、そこから出て行った沢山の感情を、一つ一つ思い出せば全て外に消えていた。そして外に消えた感情なんてそのまま忘れられていた。私は私に忘れられた。


空になった身体に、出て行った血液の代わりに、いけないものが入り込む。そうすると満たされ、私は消えた私を取り戻す気力すら「無くていい」という気持ちになる。本当は必要なはずのものでも要らなくなる程の匂い、呼吸、液体、感触、君の全てが私の何処かで居場所を作り、少しの水辺を泳いでいる。

私から大切なものが吸い取られる代わりに、水辺に泳ぐ魚が増えている。溶けていってしまいそうな魚、尽くしても尽くしても、満たされてはいけいない場所が満たされて、私の身体は空のまま軽い。水辺、 泳げなくなった私の代わりが、赤くなって足首から滴っていたのだと分かると、不安定な揺らぎは消えていた。知られてはいけない類の感情を受け取っている、解読もせずに、秘め事を交換し合っている。 水辺ばかりが大きくなり、その中で透明な魚が泳いでいる。それが赤い色を帯びるまで。眩しさから逃れたい。

眩暈


 私が誰かを信じる時はいつも全身全霊で、裏切られた時は命の一部が欠けてしまう感覚のせいで呼吸が苦しくなる事を誰にも言った事が無い。私の命はもう何度も欠けていて、実際に見る事は出来ないけれど、あと五回くらい欠けたらきっと消えていく。信じていたのに、同じ質量の気持ちじゃなかった。信じていたのに、あまりにも私が個人的で、誰かと一緒にいてもいつまでも精神的に一つになる事が出来なかった。私が生活に求めているのは、精神的に一つになりたいという事だけだった。他人と自分の間にある深くて広い境界線を越えなくては精神的に一つになれない日々が、いつも怠惰で陰鬱で、毎日をくだらないものにしていた。でもそれだけが大切な事だった。

 境界線を超えれば日常は渇いている。今までずっと好きだったはずなのに、せっかく境界線を超えたのに、その先には空虚な時間だけが続いている。好きだった記憶すら消えかかっている。何かと精神的に一つになるには、気持ちと日常を捨てなければならない。一つになる代わりに、幸せの中にあったほんの少しの悲しみと他人の悲しみが全部凝縮されたような、苦痛の時間を知らなければならない。もっと早くこんな時間の事を知っていたならば「精神的に一つになりたい」なんて事考えられない心を選べたはずなのに。何も超えようとしていなかったあの時は良かった。あの時がずっと続いていれば、私は強くて一人でも大丈夫な人間になれたかもしれない。今思い返せば精神的に誰かと一つになれたような感覚を知ってしまったせいで、私は一生私自身には戻れなくなったと思う。でも今では何かを超える事が以前のように気持ちの良い事であると感じる事が少なくなった。何かを超えた先にあるものは、全て私の心に残らない無駄な物だと思っているからかもしれない。もう思い出が更新されない日々、もう元には戻れない日々の話。私が一生私自身に戻れなくても、そのままでもいいよと誰かが連れ出して、一緒に居てくれればそれだけで気持ち良くなれるような、鈍い頭が痛い。


『私は生きながら、経験した出来事や聞こえた音の景色を、全て丁寧に録画していたつもりだった。録画を見さえすれば、忘れてしまった楽しさを、息が浅くなる程の眩しい思い出を、確かに過ぎた時間として受け入れられると思っていた。自分でさえも過去にはこれほどの眩しさに包まれていたのだ、という紛れもない夢のような事実を知ることで「ただ今が狂っているだけなんだ」と安堵する為の録画だった。確かに私の今は自分でも病気に犯されたのかと思うくらいに日常が頑張れなくて、先の事が考えられず、いつも苦しくて誰かに頼っていないと押しつぶされそうになる。鈍い頭がぼんやりしていて、身体が浮かんで飛んで行ってしまいそうで怖くなる、だからこそ思い出や過去に過ぎた確かなあの時間を求めている。一緒に駄目になりたかった、再生の風景を見た後の私の目には何も残らず、眩しい風景は1秒も見当たらなかった。私には何一つ思い出が用意されていない様な気がした。録画されていたはずの映像が機械によって勝手に編集され消されていたのかもしれない。おかしいなと思いスローモーションでもう一度再生の風景を見ると、再生の風景というアルバムを初めて聞いた時の風景が居た、少しだけ眩しい風景だった。単に再生の仕方が猥雑すぎて、大切な物全てを見逃していたのだ。時々眩しい風景を交えながら再生があっという間に終わると、くだらない映像と繰り返しの行為が膨大な時間となって何かを満たし、炸裂しそうな勢いを持ったまま映像を乱していた。もう録画する容量が残っていない様に感じられた。これ以上同じ映像が増えれば、もうその映像は録画される事は無いだろうと思った。何度繰り返しても、何度録画しても、私は何も変化する事がもう出来ないからだ。此処から先の人生は録画される事の無い付け足しの無料放送の様なものだと認識する事で、乱れた映像は次第に元に戻っていった。』


 何かを超えた時に感じるのはこういう映像の乱れと意味の無い放送の事だった。私は最近ずっと意味の無い映像の中に居て、明日には全て消えてしまう儚い出来事を諦めて、苛々しながら耳を塞ごうとしている。眩暈、

 映像の中にはこれからの事に対する示唆が含まれている様に感じ、示唆らしきものを抜き出していくといくと、あれは一体何だったのだろう?と思うような光景が大量に見て取れた。というよりも、再生の風景全てが示唆だった。初めから最後まで全く意味が分からず、何が起こっているのか検討がつかなかった。不登校気味だった生徒の母親に「あなたのおかげでうちの子が学校に通ってくれるようになったのよ。ありがとう」と突然感謝されたけれどあれは一体何だったんだろう?雨の日に図書館で本を読んでいたら、体中を雨で濡らした母親が入ってきて「ここで何してるの?」と泣いていたのは一体誰のせいだったのだろう?仏壇の前で土下座させられながらごめんなさいと言った日の夜、真っ暗な山の中不安定な道を車で走っている風景、蒸気した肌を包んでいる青いストライプのワンピース、隠された制服、全部一体何の為に起こって、何の為に今でも私を苦しめ、眩しい思い出を隠していくのか分からなくなった。以前読んだ小説に「日常は示唆で溢れている」という様な意味の台詞があり、私はそれを素直に受け入れていた。示唆は思い出、再生の風景でしかない。

 思い出に対する責任は、誰がとってくれるのだろうか。確かに過ぎた時間のせいで、私の今が狂っている。私の今に対する責任は、全て思い出に、沢山の示唆にあるはずなのに。あの時私はあまりにも人生を軽視して、どこにだって行けるような気持ちを抱き続けてしまったのだ。沢山の示唆を見逃したまま一生戻れない。確かな時間を一緒に過ごした友人の名前すら今では覚えていないなんて、思い出に対して無責任だと思ってしまい、そういう細かい意味の無い罪悪感ばかりが、胃の奥に溜まっていく。これから先は録画される事の無い様な価値の無い物だと思える程、本当は私はまだ何も頑張っていない。その事に気付いているのに何も頑張れないのは、単にくだらない日常から抜け出すのが面倒で怖いからだ。精神的に一つになろうとする時の、あの丁寧に溺れる感覚が癖になっているからだ。毎日溺れようと目眩に耐える日々の中で、自分が駄目になっていく景色を、私をこんな風にしてしまった示唆へ見せつける行為に堪らなく興奮してしまう。

こういうの気持ちの事をなんていうんだっけ?



 

早朝



イヤホンのコードが知らない人の鞄のファスナーの隙間に入り込んで取れなくなった。私はTHENOVEMBERSの彼岸で散る青というとても美しい曲を聴いている最中で、このままイヤホンの導線が切れて音が聴こえなくなったらどうしようと泣きそうになっていた。この満員電車の中耳栓をせずにいたら多少嫌な気分になってしまう。勢いよく引っ張られるコードはファスナーの金具の隙間にぴったりと、しっかりと、意図的に入り込んでいて、簡単にもう他人と私の耳栓を切り離すのは無理に近い事が分かり少し混乱した。まるで掏摸をするみたいに内密にイヤホンを取り返すのは不可能に近く、コードが絡まる目の前の他人と何らかのコミュニケーションを行う必要が絶対的にあった。具合はいつも以上に悪くなり、社会は本当に意地悪だった。4年程前からずっと具合が悪い様な気もする。病院に行ったほうがいいのかな。誰かと一緒に行きたい。診察後、具合が悪いなんて本当にただの甘えで勘違いだったねと笑いながら冬の海に行きたい。帰りにイオンに入っている大きめの本屋で誕生日占いを立ち読みして帰る。夜ご飯は普通に考えれば鍋だと思う。それか湯豆腐。


仕方なく知らない人の肩に手を置いてみた。知らない人がわざと時間を遅らせているみたいに、じっくりと時間をかけ振り返ったから「すみません。イヤホン取らせてもらっても良いですか」と無意識に早口で言い、取らせてもらった。殺意が湧いた。こんな早朝、こんな満員電車の中何故こんな状況に居なければならないのか、どうして私はいつも不安なのか、分からなくて何も分からなくて泣いていた。早朝の山手線は窒息死しそうな程混んでいて誰も私が泣いている事に気付いていない、いくら待っても助けは訪れない。誰も助けてくれないというより寧ろ助けたい側の人間が日常に1人も存在していないような気がした。優しい人なんて何処にも居ない。あらゆる人間が、助けられ救われる事ばかりを求めていて嫌になる。自分自身は誰も助けようとしないくせに、自分ばかりが助かろうとするなんて狡くて滑稽だという事も、いつか誰かが助けてくれると思い信じるのはただの虚妄だという事も、かなり前から皆分かっているはずだった。だから私は満員電車の中大変だよね、おつかれ様だよね、という無感情の気持ちでいたかったけれど、他人に触れてしまってからそれは完璧に失敗し、落ち込みも寂しさも虚妄も何もかも治らない散々な一日を過ごすしか今日を続ける意味が無くなった。



絡まるコードを丁寧に解くとipodtouchからイヤホンが外れてしまう。彼岸で散る青が車両全体に大きく流れる幻聴が何度も聞こえる幻覚を何度も何度も妄想した。


THE NOVEMBERS - 彼岸で散る青(PV)


もう何もかも全部どうでもいいような雰囲気が早朝の満員電車に噎せ返るほど溢れている。個人が少なからず持っている暗い気持ちが1つになる時に、不幸な事柄が予期せず起こってしまうのだと思う。それぞれ気持ちの大小はあるにせよ、孤立した負の感情同士は意図せず互いに入り込み合って、肥大した負の感情へと変化していく霊的な現象が存在すると信じている。肥大した負の感情は人間にコントロールされないまま誰かを殺してしまうような苦しい運命に成り果て、日常の結末として現れる様子があった。疲れた、大きな溜息を吐いた。イヤホンのコードが巻き付いた他人ではなく、また別の他人が怪訝な目でこちらを睨んでいた。彼の黒々しい髪と真っ青な学生服に海を思い、適度な寂しさがあった。代わりの事を考えていた。恐らくもう目の前の他人は代わりの誰かを見つけて私の溜息を忘れていた。

満員電車から降りて五反田を歩いた。奇妙なお店の羅列を眺めながら用事を済ませ、駅まで人と歩いた。別れ際改札口で「facebookかLINEやってる?」と聞かれ、本当に社会上この文脈が存在する事に驚いた。両方やってないと嘘を答えると「じゃあまたご縁があれば!」と言われた。とても現実味のある人だった。現実にちゃんと生きている人だなと感じて格好いいなと関心したけれど、別の世界で生きている偽物の存在だとも同時に思った。私にとって現実味と人間味は似つかない物であり、現実味がありすぎると現実に馴染むようにわざと演技をしているように感じる。人間味を欠いた最新AIみたいだった。嘘みたいな言葉と表情が現実味を持って迫る時、まるで自分が作られた世界や夢の中に生きているみたいだと錯覚してしまいそうになる。でもそういうのはなるべく早く辞めた方が良い。誰とも関わらなければ、現実味に触れなければ、病気にならずに済む。

コンビニに寄ったら現実味が売っていた。
興味の無い話を沢山聞いた。
非現実みたいな人と話がしたかったけれど頑張って我慢した。ずっと心臓が苦しくて何処かに座って休憩したかった。


彼岸で散る青聞いて夜道歩いてたら白い手袋をした警察官が横道から出てきた。湿った感じの人間で、彼が歩く度に夜の空気がぬるりとした。私達は目が合った。周りは誰もおらず只ひたすら静かに冷えていて、何度も轢かれそうになった信号機の無い十字路の上、私と警察官は距離を保った。十字路の奥から何かがこちら側に忍び込んできた。細長くて少し硬そうな荷物が青いビニールシートに包まれ担架に乗せられているらしく、妙に凹凸のある荷物は岩にしては柔らかで、しなやかな曲線と温かみを持っていた。担架を押して歩く3人の人間は何の表情も浮かべないまま、もの静かに担架を救急車に押し込んだ。儀式のような彼らのその移動には現実味がまるでなかった。


死体だった
いつもの道で無意識に死体とすれ違ったのがその日最後の出来事だった。あまりにも無造作に包まれたそれが、私が早朝に感じた殺意のような、乱暴な怠惰の押し付けで消された命だったらどうしよう。あるいは個々人が持つ小さな負の感情が1つの大きな感情になって、無意識に与えた運命だったらどうしよう?悪意に満ちた事件も、人を殺してしまう人間も、自死してしまう人間も、そういう悲しい出来事の全てが、周囲にいる他人達の悪意を掻き集めて作った巨大な悪意の力で、人間にコントロールされない運命を与えられているような気がしてならなくなった。そんなの嘘みたいな話でまるで現実味が全然無いのに。ぬるりとした夜の空気と彼らの無表情を思い返すと、死に対する馴れというものが案外奇妙な印象を人に与えるのだという事が分かる。嘘みたいな死体にも現実味が無かったのだ。私の中で「死に対する馴れ」が未だ「現実味の無いもの」として存在している事は1つの救いだと思った。早朝に会ったあの人が体中に巻き付けていた苦しくなる程現実的な現実味は、偽物みたいに不自然で救いがない。私は命あるものが、命無いもの以上にとても怖くて苦しい。でもどうせ苦しくても誰も助けてくれないのだから、君が優しくなって誰かを助ける必要も無い。安心して寝てしまえばいいのだと思う。私は大きな悪意の一部になりたくないし、誰かに運命を与える事も、誰かを殺す事も出来無い存在で居続けたい。
 

頭の中でもう一度青い凹凸とすれ違った瞬間、59個のコミュニケーションが消えた。こうやってまた自分だけが駄目になった。これから先の日常の事、考えていたら次第に現実味に飲み込まれて偽物になっていく。それが正しい生き方なのかもしれない。二月に行くTHENOVEMBERSのライブが楽しみで今にも死んでしまいそうになっている。

宴会


デニーズでサラリーマン達が宴会を開いていた。

デニーズで忘年会?!」私は多少驚きつつ、デニーズから撤退しようと決意した。彼らが楽しそうに社会性をばら撒きながら私の聖地を妨害しているような気がしつつも、忘年会の会場に〝デニーズ〟を選ぶ独特のセンスに惚れ惚れしたのは確かだった。それでも私はデニーズでゆっくりと読書をしていたので、忘年会の絶え間なく続く会話は聴くに耐えず、仕方なくお会計を済ませ、潔く部屋に戻った。とても眠たい、加えてつらい、いつになく孤独、殆ど何処にも居場所が無い。小学生みたいな事を帰りながら思う。いつか手帳にも書いたけれど、私が社会に影を創りながら物事を眺める様になったのは小学生の頃だった。視力が急激に悪くなって、視界が灰色にぼやけだした頃。文字がぼやけているにも関わらず、ひたすら漫画や本を読んでいた小学四年生の、憂鬱な小学校生活と目が悪すぎて見えない幾つもの表情と景色達。今更それらを正しく思い出すことすら出来ない。元々見えていないから、表情や景色は正しく記憶されていないのだ。コンタクトで視力を得た今も日常は、小学生の頃から何も変わっていない様な気がする。他人の表情にも景色にも興味がない。何に興味があるのか分からない。




Ringo Deathstar - " Imagine Hearts "



仕方なくデニーズでゆっくりと本を読み続けた。体と頭がぐったりしてきて、文字を眺める事以外何も出来なくなった。あらゆる不安を考えず、他人に言われた嫌な言葉もすっかり忘れられる、体がデニーズの一部に溶けていく、何処かに身を委ねてしまうような浄化行為、それを夜にするのが私にとっての安息で、過去への回帰であって、…デニーズでゆっくりと読書?

もしかしたら私は、サラリーマン達の側からは
「一人の女が孤独性をばら撒きながら僕達の聖地を妨害している」と思われていたかもしれない。でももういい、その夜は既に今変化したみたいだった。彼らの宴会は私の浄化行為を妨害したかもしれないけれど、私の浄化行為もまた彼らの宴会を妨害した一つの要因であった。その事実があるだけで、今ならあの宴会を許すよりも先に、彼らの宴会を妨害した事に反省できる。その代わり、突然ではありますが、私はこれからどう生きていけばいいのかを彼らに聴く事を許して欲しい。

結局、直截的に宴会を妨害する事になるのかもしれない。
「忘年会中突然すみません、これから私、どう生きていけば良いですか?」
彼らは私に言う「人に話しかける時にはまず始めにその耳に入れているイヤホンを取ろうね、話はそこからだよ。人の言葉が聞こえないように必死に守っている君だけの聴覚、そんなもの何の役にも立たないからね。」
私はその時「信じていたのに」と言うはずだったけれど、なんだか何もかもがどうでも良くなってしまい、彼らに「あなた方、一体何処の誰なんですか?」と言おうとした、瞬間、ウェイトレスがトレイを落とし、金属とガラスが大きな音を立てて床に散乱した。割れていた、3つのパフェが死体みたいにグロテスクな様態になったせいで、デニーズの夜は強制終了してしまった。ウェイトレスは怒った顔つきで口元に笑みを浮かべていた。私に向って音のない声を出しながら。

いつもの夜でもいつもの夜じゃない。いつもの夜じゃない様でありながら、結局の所はいつもの夜。〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉読まずにただ眺めている。毎晩少しずつ変化していると錯覚しないと気が狂うくらい執拗に繰り返される夜、信じていた自分だけの聴覚は最初から嘘で、聴こえてこなかった言葉、聴こうとしなかった言葉の音が本当は一番大切な事だったと気づいた夜、これ以上何かに気付く事を放棄をした。それは、他人から求められているものに付随している音を根こそぎ取り除き、求められているものなんて最初から無かったと見せかける不思議な細工が必要な放棄だった。昨日誰かに言われた「生きることを続けなさい」という文脈、そこから音を欠いてしまえば、ただの文字にしかならない。私はその文字をただ眺めて、ずっと意味が分からないままでいる。周囲にある言葉全てがただの文字になっていく。

ウェイトレスの言葉から音を欠き、根本的な無視をした。人の声を聴く事、普段ならやり遂げられるはずの事なのにどうしてもできなかった。精神の麻痺、文字に付いている声を受け入れる事がとても難しい。今夜はもういいと拒絶してしまう。今夜だけじゃなく、これから先も、全ての言葉から音を欠いて、最初から何も無かったことにしようと思う。もう私は全部無視したくて堪らないような気分で一杯で、生活が疎かになってきている。

〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉デニーズに居ないはずの私が未だ眺めている文字の羅列。アントンチェーホフが書いた小説の翻訳文、誰かが欠いた小説の音。言葉はただの文字として、音をたてず紙の上に浮かんでいる。ずっと意味が分からないままで、根本的な無視を続ける以外に「やるべき行為」が無い。ゆっくりデニーズで文字を眺めています。声のない言葉をただ眺めて、これは絵画ですよね、みたいな事を思って、何にも集中出来なくなっている。

やらなければならない文脈、それを発した他者の声を故意に欠いてしまう放棄。この放棄をデニーズの夜が強制終了した時、初めて自分で認識した。知らない内に、他者の気持ちに気付くのが怖くて声をただの文字にする事ばかり得意になっていたのだ。意味を欠いた言葉達/ただの文字達が切り離された声を取り戻そうと必死になればなるほど、何故だか過去を思い出す。切り離された言葉が向かう所には、手を振り返してくれない昔の友人達がいて、私が居たことを誰一人覚えていない過去が広がっていた。私が居たから創られた過去なのに、私の存在が最初から無かったみたいになった場所で、言葉達は意外にも前向きに幸せになる予感で浮き足立っている。過去への回帰こそが、意味を欠いた言葉達の浄化になり、いつかは意味を取り戻すのかもしれない。あるいは私の存在が、そこに戻っていくような、確かな思い出を意味に直す補正が現実では行われる。2005年の夏、1996年の冬、思えば既にさよならをした後の世界にしか、声に繋がる意味は存在しなかった。


声は文字に意味を与える、
言葉は過去から意味を受け継いでいく