ドッペル原画展

国境

 

 感想を残しておこうと思っていたのに、思い始めてから約一ヶ月が経ってしまった。何故今こうして突発的に感想を書き始めたのかというと、明日から私は五日間旅に出るからだ。恐らく過酷で、後悔の多い旅になる。そして、旅の前後で周りも自分も全く異なるものになってしまうのではないかと思っている。全く異なるものになる前に、今の自分で感想を書いておきたいと思ったから、旅の準備もせずこうして書き始めている。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。

  

 私があらすじを簡潔に言うならば、

「主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う話」という風になる。

作者の他小説によく見られる”誰かの失踪”や”死”という事象が、この小説内にも存在はしているが、他小説ほど印象に残らない。失踪や死という事象以上に「幻想」が小説内で大きな存在感を残しているのだ。幻想とは、根拠のない空想・とりとめのない想像の事だ。この小説の場合、主人公と過去の女性との間には何年も月日が流れているため、過去を思い出すよう努めても、いくらかの「空想・想像」が必要になってくる。正しい過去を感情として思い出す事が出来ないから、過去の断片を繋ぎ合せ、おそらく・多分を多用しながら自在に過去を作り出す。主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う過程には、どうしても過去に対する想像・空想を止める事、過去を自在に作り出す事が出来なくなってしまう主人公自身の少年っぽさと脆さ、過去へ引きづられるようにして現実から遠ざけられていく心の動きが描かれているように感じた。そしてそれらがとても面白かった。

 

 過去の女性には、過去の時点で多くの思いが重ねられていた。当時の思いを、当時の自分でない者がもう一度思い出すとすれば、それは単なる想像・空想でしかない可能性がある。つまり、作品のあらすじに書いてある”かつて好きだった女性”は”今の僕”にとって、温かく幸せなただの幻想として現れてしまうのだ。そのような類の幻想は、思い出したくもない卑屈な過去によって排除される。自分の本質が現れているような卑屈でどうしようもない過去は、「どこにも行けない僕」を「今の僕」へと追いやっていくのだ。みんな、そうやって遠くの過去を捨てて此処までやってきているのだろうと何となく思う。まるで夢から目を覚ますみたいに、いつまでも寝ていられないのだと大きく伸びをするのだ。

「幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。ーたぶん自分の意思で殺して、捨ててしまったのね。ーときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って言うの。」

  この言葉は「僕」の妻の言葉だが、この言葉を読んで私は胸が苦しくなる。現実に留まるのは、簡単な事じゃない。しかし、過去をいつまでも追いかけるのは自然の流れに反している。そしてなによりも、追いかけている間には周りも自分自身も変化している。十年前にある女性が好きだったのは、今はもう持っていない「十年前の自分の感受性」があったからなのだ。そういう当たり前の事が、普通に生活していると分からなくなる。分からなくなって、過去へ吸い寄せられたり、現実が全く輝きのないものに見えたりする。それは、小説に出てきたヒステリア・シベリアナという病気に似ている。太陽が東の地平線から上がって西の地平線を沈んでいく毎日の繰り返しが、ただ一定の繰り返しが、誰かを破壊していくヒステリア・シベリアナ。

 

  私は「過去」「幻想」「現在」という言葉が大好きだ。本当に楽しくこの小説を読み、勝手に考える事が出来た。この小説を読んで分かったのは、変化した事に気付かないまま過去の事を考えると、すべてはまるで幻想になってしまうという事だ。一方で、ずっと変化する事なく思い続けている事に対して自分は敬意を払うべきだろうとも思う。物事を考えるとき、その物事を考え思い出す用の心がそれぞれ必要なのかもしれない。全てに対して同じ心で接する事が難しくなっているのだ。絶対に許せない高校時代の話は、絶対に許せなかった高校時代の心で考えた方が良い。違う部分の心で考えると、その過去の事柄はもう私にとって「完全にどうでも良い事」なのだ。だけど、月日が流れれば心の場所さえ忘れてしまうのだろう。感情も過去も、もう二度と再現する事が出来ない。五日間の旅から帰ってきた後に、今こうして書いている感想を全くそのまま「想像し直す」事も、もちろん不可能だと思う。当たり前の事だけど、それを忘れてしまうといつまでも過去に縛られたままのような気がするのだ。

 

 

 

(どうでもいい事)

「僕」と「僕がかつて好きだった人」は国境の南から太陽の西へと向かう所まできていた。しかし、太陽が昇り沈んでいくという「現実的な事」がそれを思いとどまらせたと解釈する。「国境の南」は僕と僕のかつて好きだった人が昔のままで存在する過去、「太陽の西」は過去に対する想像が現実に現れてしまう幻想、「国境の南、太陽の西」はその上を休む事なく自動的に過ぎてゆく、回転していく”とても現実的なこと”であると考えている。 

 

 

 

 

 

八月


『 何かのファンになるというのはとても孤独な活動で、その活動上に見返りや満足感を決して求めてはいけない。その何かは僕達ファンに救いや希望を与えてくれるかもしれないけれど、救いや希望を与えた本人は与えられた側に何の興味も無いはずだ、本当の所は。例えるならば、ファンという存在は何かが主役の舞台に登場するエキストラの様なものだろう。何かの壮大な人生の中で、ほんの少しだけ呼吸する小さな存在。僕達は基本的に一人だから仕方ない。基本的に一人だから、相手の人生についてまで自分の中に取り込んでおく訳にはいかないのだ。基本的に一人だから、自分以外の人間は殆どが特別な出来事には直接的関係の無いエキストラでしかない。何かの絡みがあって目立ったエキストラは選ばれた存在で、特別な出来事を招いていく要因にも成れる。でも、殆どのファンは選ばれる事の無い只のエキストラだから、いてもいなくても変わらない。あなたじゃなくても、誰でも良い。何かの人生が、より賑やかに明るくなる装飾、何かが死ぬ時、棺桶の空間を美しい空気で満たす為の余興 』


『 後悔する瞬間が大好きだ。あの時、あの行動さえ、あの言葉さえ、あの感情さえ無かったならば、今はこんなにも酷い状況になっていなかったはずなのにと後悔する瞬間。絶対的に取り戻す事の出来ない思い出、絶対的にやり直す事が出来ない生活が最悪であればあるほど、私はその後に続く事柄を軽視するようになっている。後悔の後には同じような後悔しか頭に残っていかないからだ。思い出にも生活にも、関連性と積み重ねが必要だった。今を過ぎて積み重なっていく物を軽視するだけでまるで手放したつもりになると、堪らない緊張感と開放感を感じる時がある。その瞬間が好きで、八月の夏に入ってから何度かやっている。全く興味の無いビル、車の免許、吐き気がする卒業文集、笑っていない写真、受け止められない大きな後悔が遠くの方でずっと叫んでいるみたいに見える丁寧なプレゼン 』


『 神様は救いを無条件に与えるが、与えられた人間が神様に対し何を考えているのか、その内側を知ることは出来ない。行動と感情は必ずしも一致しない。仕方なくこうやって続けているけれど、行動に反して心の奥では一刻も早く全部諦めなければならないのだと急かされている人は、この町には多いかもしれない。それでも互いに助け合う事は無い。基本的に一人でやっていかなければならないのかと思うと基本的には苦痛だらけだ。楽しいことって然う然う無いと思う。楽しい事を感じるにはそれなりの代償が必要になってくる。時間と後悔と無駄と恥。この町の人々の大半は、恥がなければ達成されない目標を、楽しいと思っているのかもしれない。互いに恥を与え合って、互いに後悔する。助け合う事はないのに恥や後悔を共感する日が稀に訪れる。痛みは恐らく他人のものだと思う事で、耐え切れない不調を和らげている。たった一つきりの心臓であんなにも大きな所に飛び込むなんて、私は怖くて仕方ない。生まれてこなければ。基本的には気持ちさえ無かった。 』


『 自分の考えが無い子供は、自分が気に入った創作物を通して幾つかの苦痛を理解してもらおうとした。でも、家族は誰一人として子供の興味に対して興味を示さなかった。細い声で呟くような音楽も、わざとらしく悲しい結末のない物語も、良さが全く分からないと言った。共感の欠落だった。良さを共感して欲しかった訳ではなく、何かを良いと思う気持ちを交換したかったのだ。自分の好きな物に対して話しても話しても何の気持ち返してくれない家族は、自分自身に興味が無いのだと思った。好きな物は自分の内面に通じる物だと思っていたからだ。あるいは、その当時好きな物は自分自身だったのに。家族の興味は学校の事勉強の事人間関係の事に向けられていた。それらに対して親が言う事に共感出来る所は殆ど無かった。何の気持ちも返すことが出来なかった。共感の欠落だった。 』



youtu.be




『 インターネットオンラインオセロネット対戦画面の下にあるチャットで人と会話する事が日課になった。インターネット上のオセロ対戦という場所で、毎晩9時に待ち合わせをしているからだ。でも、君って一体誰なんだ?なんか怖いよ、知らない人と毎晩オセロ対戦しながら意味のない会話をするなんて。オセロ対戦では負けてばかりだし会話もよく分からない。そもそもこの日課はいつまで続くのだろう?どちらかが降参すれば会話は永遠に消えてしまう。オセロにもいつか飽きてしまう。きっと二人の会話は大事にされるべきではないし、誰かの目にふれるべきものでもない。実際的に会うことも一生無いのだ。それでも私はインターネットを通り、わざわざその場所へ毎晩訪れている。きっと弱くなってしまったのだろう、私がずっと嫌いだった人間の種類に似ている。お互い弱い人間でなければ、こんなに脆い廃墟みたいな画面で人を待つなんて行為を続けるはずないのだ。体を放棄して、感情だけでずっと待っている。言葉を交換して、薄っぺらい寂しさをお互いに奪い合っている。インターネットが無くなってしまったら、私達の待ち合わせた場所と感情は何処に行くのだろう。 』


本の感想として曲の歌詞を書く。
「この曲は何の小説を想像した歌詞だと思う?」と聞く。
相手が答えた小説がこの歌詞の気持ちと一致した時、どれ程素晴らしい嬉しさや感動が湧き出てくるのだろう。
それらを想像すると楽しくなるのに、少し切ない。
切なさには〝適当な大きさの穴〟が多く開かれている。
その隙間から、本当は光ったはずの思い出と数々の温かい会話がねっとりとした感触とみずみずしさを持って流れ出していく。血の様に、わたしはそれが流れているのに長い間気付かない。気付くのは適当な大きさの穴達からもう一滴も血が流れなくなった後で、自分の体が真っ赤に汚れてる事を「発見」した時だ。切なさの後には無力感 怠惰、放棄 意味のない眠りが繰り返される。血に濡れた生身の体ほど、卑しく汚らわしい物を見た事が無かった。だから、それを見た瞬間、大きな白い空白の雲が覆いかぶさって、身動きが取れなくなるのだ。今すぐに隠れたい、全然こんな状況望んでいなかった。どうして今まで血が流れている事に気付かなかったのだろう?自然のせい、運命のせい、雲行き怪しい空白に覆われるだけで、全く身動きが取れなくなる。



僕は何も見えていない
僕にだけ何も見えていない

夢の中の少女の身体
通過する光から血が溢れだす
溺れる赤い虎を、見つけて祈った

それは全て僕の夢を現実的にする為の嘘みたいな余興、
あるいは劇団員だったのかもしれない

劇団員は時として殺し屋になった
ふざけた余興
ふざけた演出
僕だけが生身の命を抱えている
君だけがそれに気付いていない

いつの間にか遠い昔へ戻ってしまった友人
でも遠くへ行ったのは僕の方だった
演出が少しずつ崩れていく
本物の血と本物の光が与えられ

仕組みは或るのに論理の無い
溺れた虎は確かに血を流している
それを眺めて共に祈った

まるで揺蕩う海の月を絵に変えてしまう様
見殺しにしてしまう
此処にある本物は僕らだけだったのに

海に光を与えたのは君かもしれない
遠くからの記憶と悲しみ
君は全てを本物にしてしまった

行き違いだらけの舞台
行き場の無い命を抱え
僕達はいつまでも悲しかった

宿痾


飛行機に乗っているシーンから始まり、それから約800ページ分、主人公が過去を〝回想〟し続けて終わっていく物語について。

私はその物語を〈既に死につつ有る男の走馬灯〉として読むことにした。もちろん初めて読んだ時はそんな風に捻れた読み方をしなかった。それでも「これは最初から最後までずっと回想だ」という事は初めて読み終えた時から気付いていた。
一体いつになったら飛行機は離陸し、一体いつになったら男は回想を中止し、一体、いつになったら、現実に戻ってくるのだろうか?という疑問。その疑問は少なくとも私にとって、物語をより一層魅力的な物にしている。物語を読み終わってから一年が経っても、回想の物語は日常のふとした時に私をはっとさせるように。物語が物語上の現実に中々戻ってこないという出来事には、不思議で内包的な幻想が隠されているからだ。


本来非現実であるはずの物語の中に〈現実に戻ってこない〉という場面を読む事で、非現実の中に現実が内包されているというイメージが広がっていく。更にそのイメージの中で過去を〈回想〉する時、物語に幻想性が生まれるような気がした。
不気味な顔をしたマトリョーシカ。一番大きな殻である非現実が現実を覆い、非現実と現実は一丸となって回想を隠している。隠された回想を見つけたとき、非現実や現実の全てが完全に幻想的な物になってしまう。同時に、不思議で内包的な幻想という物は、内包された現実を放棄し、その向こう側にある過去を回想した時に浮かび上がってくる物なのかもしれない。回想は目の前に広がっている現実を放棄する事だった。それはものすごく「不確かな事」で、無責任で、逃げ場のない物なのだと思う。

存在そのものが不気味な幻想になってしまう/内包された現実を見過ごして過去に思いを馳せる不確かな

矛盾のような、何が現実なのか分からなくなるような、絡まった時系列がとても好きだ。不確かな出来事は、急にぱったりと姿を消す。背中を押されて電車に轢かれた人は、日常にぱったりと姿を表す。嘘みたいに現実感のある回想と、嘘みたいな現実が、ばらばらになりながら生活に紛れ込んでいる。私は夏の間ずっと、生活に紛れた不確かな部分・現実感のある回想へと主人公を連れて行く幻想性に、死や夢を連想したりしている。そして、こんな事しか考えられない自分に自信を失くす。自信を失くすくらいに意味のない事を考えないかぎり、急かされる事を止められない。まるで病気なのかと思う。生まれた時からずっと纏わりつく病気。


本当に、
毎日急かされていて毎日頭痛が治らない
やるべき事を義務みたいにこなす
子供みたいな事を考えながら毎日
急いで辿り着いた先に、
待っている楽しみも誰かとの約束も
やりたい事も何もないのに

何でこんなに急いでるんだろう?
何にこんなに急かされているのだろう?
もう、死季が近いのか?!

普通に、どう考えても、
時間を忘れてゆっくりしたいし、
墜落する飛行機に乗って回想したい。私が乗っている飛行機は堕落している途中、もしくは既に堕落している。それは現実上にある事なのか回想上にある事なのか分からない。堕落している事に私自身が気づいていなければ、それは現実でも回想でもなく、ただの偽物になる。物語の上では。



堕落し続ける中、主人公は一向に回想を止めない。最後の「一体どこにいるのだろう」という言葉は〈回想〉の中から出てきた〈現実〉に対する言葉だ。

主人公が、回想の中に感じていたものが物語上の現実でも同じ質量をもって存在している。過去が現実と繋がっているのだということが紙に印刷された文字から指先を通じて伝わる一時を過ごすことが出来ると、私はとても嬉しくなる。嬉しすぎて、息がつまる。感動して、急かされている事を忘れてしまう。そして感動は、直ぐに収まって急かされているのを思い出す。

急かされているのを思い出すから感動は直ぐに覚めてしまう。

急がないと殺されるんじゃないかと思う事で忙しい、何か一つ欠けたらばらばらに壊れてしまいそうだ。

私は墜落する飛行機の中で、ばらばらに解けた嘘みたいに現実感のある回想と嘘みたいな現実を、もう一度一つにしてあげないといけない。空に浮かび、ノルウェイの森が流れる空間はきっといつまでも不確かなものとして、私が壊れるのを引き止めてくれる。ただ、その空間に辿り着くまでの期間、悲しい出来事が多い。



――

私は最近ブログを書いていて良かったと思うことがありました。自分が思っている事や考えている事を文字に表しておくことを続けていきたい。読んでくれている方が居るかもしれないので。

なぞなぞの言葉は「泡」です。
さようなら。

方法

わざと孤独に寄り添うと、必ず後を付けられる。思い悩んで、悲しくてどうしようも無い様な、今にも泣きそうな、今にも吐き出してしまいそうな表情すると。後を付けてきた男に話しかけられて、素直に振り返ったら、其処には小説の中から出てきた言葉が目の前に在って欲しい。絵画でもいいし、アニメでもいい。夢でもいいし、病院行きでもいい。

それでも目の前にいるのは全身から吐き気を感じる偽物の言葉を取り付けた男で、まるで表情が分からない。顔があるのに顔がない。言葉を発しているのに言葉がない。内側が空洞で、外にある孤独を取り込まないと何にもなれない人間。「その孤独が偽物だとしても構わない」と今にも言い出しそうな顔で、私に話しかける。
そんな恥ずかしい台詞を言うわけもなく「ん?お姉さん、遊べる人?」「よくBEAMS来るんですか?」自分だけが嫌な思いをする。無駄な寂しさを吸い取られて終わった。恥ずかしい人間だからもう泣けないはずなのに、ディアマンを聴いたら涙が出そうになる。慌てて寝たふりをして、ふりの中で嫌な事全部忘れる。


私はその日、尾びれがついた金魚を想像する様な、黒くて長いスカートを買った。前から見ると短くて、白いレースと黒い生地の間にはスリットが入っている。歩くと前より長い後ろの生地が揺れ、スリットからは足が見える。(のちにそのスカートは滅茶苦茶にされて無駄な物になった)


スカートを買った後に、道端で『A』を読み終え、家へ帰ってからもう一度『A』の『信者たち』と『嘔吐』を読んだ。その後『誕生日の子どもたち』を読み始めた。『信者たち』の最後の一文が、知らない人の声になって頭の中で響いて緊張した。

部屋の中にいるのに、私は何故か流れる景色を見ている。見ているというよりも、どう頑張っても勝手に流れてしまう景色を感じて、悲しい気分になる事を望んでいる。元気な気分になろうと思えば、自力でいつだってなれると思っていたのに、何処にどんな風に力を込めればいいのか分からなくなっていた。力が在っても、やり方を忘れてしまったのなら意味がない。これは元気な気分作成の話に限らず、その他色々な物事に対して言える。生きる力が在ってもやり方が分からないなら、当たり前だけど、本当に意味が無い。

やり方が分からない満たされない感じられない部分から目を逸らして、それでも時々は何かしたいという意志で目線を元に戻す。そうすると、生活が目の前でただひたすら流れている。それは自分の意志じゃなくて、月とか夜とか朝とかそういう時間的な物によって仕方なく流れていく。でも、その時間に逆らう事だって本当は出来る。私が完璧に独りなら出来た。義務や命令や義理が無ければ、社会から疎外されていれば良かったのに。そうすれば、私は独りで自分の自分だけの時間が流れる所へ行けると思っていた。

でもそんな事は有り得ない事だから、私は常に分からない部分から目を逸らすしかない。目を逸らす事がどうしても怖いなら、流れていく生活を見ながら元気な気分作成方法を始めとした、様々な〝方法〟を思い出さなければならない。何かしたいと感じて視線を戻せば、何かする為の方法を探す必要が有る。偶然其処にある景色の中に。
それが、義務であり命令であり義理だと感じる。



突然の事ながら、私はマンションの4階に住みたい。ベランダから白い紙で作った紙飛行機を電車に向かって飛ばしてみたい。視聴率の悪いドラマのワンシーンみたいに、木漏れ日の朝にだらしないパジャマのままベランダに出て、紙飛行機を外へ投げる。それは楽しそうだから元気になる為の方法になり得るかもしれない。

そのシーンに自分以外の誰かが居る事を想像して不意に心が苛立った。其処に誰かが居ることで、私の日常が誰かによって壊されていくような気がして。例えば小説を読んで、自分も何かしたいと思う。何かする為の方法を探そうとしたその時、目の前でぐるぐると日常が回っていく事が、壊れていく事が、もう本当に嫌なのだ。回っていく事は自分の意志ではない。時間的な物に従順な周りの人間や自然のせいで、私は方法を探す度に何度も壊されていく。好きでもない男と結婚して、毎晩求められたい。それを続けて壊されて、人を好きだと実感したい。

  

君達の目の前で壊されたように泣きたい、とにかく独りになりたい。独りにならないと何も始まらないような気さえする。

そう思った日の夜が明けると、私はいつの間にか病室に居た。病院行きの願いが叶っていた。

夢?

【最近気づいた事】

Ⅰ, 最近、サウンドクラウドに音楽投稿をしている外国人を観察する事が趣味になりつつある。
観察といっても、見る部分は三つ。
①ユーザーネーム
②投稿音楽のサムネイルと曲名
③ホーム画面に表示されるアイコン

①②③を観察する際、「漢字」「平仮名」「アニメ」と「英語」が混合している物を目にするととてつもなく気分が楽しくなる。元気になる方法の一つである。

例えば、
・Mujo情というユーザーネーム
・絶妙なアニメシーンを切り取ったサムネイル
(朝食シーンに登場したと思われる卵かけご飯の絵・煙草を吸うアニメキャラの手元・学園物アニメヒロインの携帯や携帯画面 など)
・曲名に〝栽景〟〝殺意〟〝現実〟〝薬〟〝毒薬〟〝実在〟〝清蒸〟〝低い〟〝社交上の〟など、存在感が在りそうで無いような、視覚的に美しい漢字を取り入れる
・見たこともない様な日本産菓子画像を使う
・鳥居や木魚、釈迦を連想させる画像を使う
・某アニメ銀○やNART○、けい○ん!の画像をそのままアイコンに使ってしまう
・日本アニメのセリフや映画BGMをmixする


ロサンゼルスやハンガリー、サンフランシスコに住んでいる外国人はハイセンスである。

漢字や日本文化を融合させたアイコンやサムネイルを巧みに駆使しつつ、音楽そのものはジャズヒップホップ(私はジャズヒップホップが大好きでサウンドクラウドではジャズヒップホップと気が触れそうに壊れたハードコアとösterreichだけを主に聴いている)が美しく流れてくる。

謎のラップが、トランペットとピアノの不安げで不安定な旋律に溶け込む様な音楽を聴くと、程良い脱力感に包み込まれる。

気分としては、「雨が降っている日に借りたい本も読みたい本もないくせにわざわざ遠くの市立図書館へ行く途中の電車で見る夢」のような、あるいは「本当に単に将来のことや過去のことが不安で眠れない夜に心臓から聴こえてくるダイレクトな死」のような、そういう感じの物だと、思っている。夢であっても死であっても、どちらにしろ何度も聴きたくなる音楽であり、日常が多少楽になる。

私にとって気分としての夢や死は、日常を楽しむ為の道具なのだろうか?では、本物としての夢や死は私にとっていつになれば楽しい物になるのだろう?


Ⅱ, お風呂に入る時、お風呂場の電気は付けずに脱衣所の電気だけ付けて湯船に浸かると落ち着く。


Ⅲ, 思った事や感じた事は、もしかしたら誰かに言わずとも自分自身とずっと共有していけば寂しくならないのではないか。薄々気付いていたけれど、私は昔から誰かと何かを共感する事が苦手だった。

共感出来ない事が理由なのかもしれないけれど、誰かの為に遠くへ出向く事に違和感を感じる。好意もないのに、外出が好きでもないのに、体調も優れないのに、わざわざ部屋を出て感じの悪い電車に乗り、一生懸命言葉を紡いで相手の時間に残る必要があるのだろうか?

こういう考えは、自分の事しか考えられない恥ずかしい人間だからだと思う。

きっと前世は、純文学を読みすぎて人間の内面ばかり吸い取った蛾だと思う。前世では内面にしか興味が無かったけれど、現世では遂に〝自分の〟内面にしか興味が無くなった。「自分の事が大好きなんだね」と言われれば何も言い返す事は出来ないけれど、自分の内面を注意深く観察する事は自分を好きで居るための、ましてや自分に自信を付けて可愛がる為の物ではない。自分の卑屈さと未熟さと、とてつもないダサさに気付き、その気付きをいち早く死へ近づける為の方法だった。理由を内面に探して、また一つ自分を嫌いになれば、なんとなく私は救われた感じがする。開き直る。「自分が大嫌いだから内面を深くまで見て罰を与えている、それも自分自身によって」という風に。


結局、自分で自分を傷付けて救われた気分になるなんて、その時点で自分を可愛がり過ぎている事に気付く。積極的に他人に関わって〝他人によって〟傷付けられる事で救われた気分になれれば、私は自分を突き放して、くだらない考えを馬鹿らしいと笑って、楽しくなれる。これが楽しくなる為の一番簡単な方法かもしれない。



何もかもが今までよりも早いスピードで、止まることなく続いていく。自分のくだらない内面のサムネイルやユーザーネームを考える時、なるべく聖書を由来にしようと思いつく癖がある。

暴力

カーテンレールに吊るして乾燥させてた花束が、不意に足元に落下した音で目が覚めた。

頭から眠気が抜けていくほんの一瞬、足元に落ちた物は完璧に死体だと思っていた。夢との関係性でそういう寝惚け方をあえてしていた。私は、現実から聴こえるカラスの鳴き声を夢の中で聴き、夢の中でカラスをちゃんと殺した事に気付いていた。

朝起きてわざと寝惚けると気分が楽になる。突然引き戻される前に境界で彷徨う事は、直視できない朝に慣れるまでの優しい束の間だと思う。現実で鳴くカラスの鳴き声が聴こえなくなる束の間、現実では花束が落ち、寝惚けの少し手前でカラスは死んだ。乾いた薔薇は、カラスの死体と同じような質量と同じような存在感で私の足元に落ち、夢を覚ましてしまった。

全ては意味の無い事、誰にも関係の無い事

連休の大半は風邪薬と一緒にベッドの上で過ごした。連休という日々も、随分昔の事の様に思える。「昔の事」という箱の中には、連休は勿論の事、小学2年生の頃に受けた宮沢賢治についての授業も、二歳の頃にコーヒーを無理して飲んだ時の味も、昨日見た空の印象的な雲の動きも、全部一纏めに詰め込まれている。まるでコンビニで売ってる大量生産されたクッキーみたいに、どれも決して特別なんかじゃない。誰にでも与えられる過去、誰にでも感じる事の出来る感情だけが昔の事として残っている。


連休の中で印象に残っているのはカラスを殺した夢を見たその日だけだった。その他の日は声が出ないまま居るはずのない兄の事を考えていた、ずっと。


兄は仕事へ向かう途中初対面の男性に突然顔を殴られた。何度も何度も殴られて顔は血で真っ赤になり、目の上は紫に腫れ上がった。朝方だったのに目撃者は誰も居なくて、救急車を呼んだのも兄本人だった。

相手に向けて特別不快な行為をしていた訳では無いはずだと兄は笑いながら言った。朝、いつもの様にスーツを着て、ハイトーンの髪を整えて、薬を飲んで部屋を出た。それでも私の兄には、顔も名前も知らない赤の他人に突然殴られる様な隙と不本意な不快感があったのだ。
殴って、破壊したい
殴って、罵倒したい
殴って、否定したい
そういう様な事を他人に思わせる雰囲気がある。雰囲気というより、表情や立ち振舞から浮き出る人生だったのかもしれない。

兄は時々おかしくなった。部屋に入ろうとすると大きな声を出したり、私が兄の目を覗こうとすると突然泣き出して私を殴ろうとした。私は、不安定な兄の事が好きだった。好きだったけれど、だからと言って結婚したいとか手を繋ぎたいとかそんな事を思う訳は無かった。例え血が繋がっていないにしても。

〝血が繋がっていない〟という事を意識すると、兄と私の間にはお互いに知らない他人が一人立っているみたいな気分になった。兄と話す時は、まず始めにその他人に言葉を伝えないとならない。言葉を聞いた他人が兄に言葉を伝える事で、やっと私の言葉が兄に伝わるのだ。勿論、兄が私に対して言った言葉も、他人を介さなければ聞く事が出来ない。そういう構造の中に私と兄は居たから、私は兄の本当の言葉がいつも分からなかった。次第に、兄には隠し事がある様な気がして、話すのが怖くなった。どうか私と兄の間に存在する他人が消えて無くなります様にと願えば願う程、他人の数は増えていった。兄との間に何も無い距離で言葉を交わせるのは、私以外の人間全員であると言っても良い程、兄は私に対して頑なに本当の姿を見せようとしなかった。



だから、他人に殴られて入院してくれたのは好都合だった。兄の部屋へこっそり忍び込んで机の引き出しや箪笥の中を全部覗かなければならない使命感で胸が一杯になると、熱は更に酷くなって、喉が焼けるように熱くなった。



完結に言うと、兄の机の中には鉛筆や針で汚された私の写真が何枚も入っていた。どれも最近の私の写真で、顔の原型が無いくらいに傷付けられていた。それでも、机の奥にあったセーラー服を着た中学生の頃の写真だけは綺麗に残っていた。写真を見ると誰か分からない様な笑い方をしていた。変わってしまった私には価値が無いと言われている様だと思った。



意識が朦朧とする中で見た兄の部屋、過去の自分の笑顔、私の中の兄はとても遠い所へ消えていった。どこにも行かないで欲しいとどれだけ思っても、行ってしまう。知らない笑顔をもう一度だけ見ようとする。そうすると、皆、私の事を無関係な他者だと認識した。本当は最初から誰にも愛されていなかった。


兄は私の熱が下がった日に退院した。
メロンを持って帰ってきて嬉しかった。
いつものように生ハムを巻いて食べた。

「僕が殴られた時、相手に『あの不倫したバンドのボーカルみたいな髪型してるくせに、お前には社会に対する物怖じと生活に対する関心が無い!!』って言われた。『無関心もほどほどにしろ』って言われながら何度も蹴られた。」と兄が言うと、私は何故か笑顔になった。

私と兄の間に居る他人に向かって、
「はわー、私は社会に対する物怖じが無かった頃の女子高生に戻りたい」と言った。
その言葉は兄と私の間に居る1853576人の他人を介して本当の兄へと伝わる。

兄はメロンを口に含みながら、
「女子高生向いてないよ。もう君は元には絶対に戻れない」と言っていたらしい。生ハムとメロンの相性の悪さに対して怒っていた。

メロンと生ハムの相性の悪さが分からない。
こんなに相性の良い食べ物他には無いし、これがあれば社会に対して物怖じする事もそれ程長くは続かない様な気さえする。

生ハムメロンを食べ続けたら、私は道端で突然殴られたりしてしまうだろうか?もしくは誰かの事を、突然殴ってしまう出来事が起こったりするのだろうか?
程よい脱力感で、全く力のない腕で、
兄をもう一度殴ってあげたい

日記

( 1 )長い夢を見ている様だ。200頁の論文をA4用紙1枚に纏める事が強制になった春の水曜日から、思うように頭が動かなくなっていた。

頭が思うように動かないと人間は何一つ自分の意思で行動が出来無い。脳は心であり、心は脳であるからだ。そもそも、心という場所は最初から何処にも存在しなかった。心を気持ちの保管場所として考えるにしても、保管場所としての空間は存在しない。保管されるのも、気持ちが作られるのも、常に同じ頭で繰り返されている。作られた気持ちを保管する場所としての空間は最初からずっと脳の中に佇んでいた。別の所へ逃げたりしない。心なんていう架空の空間へ、自分の意志を捨ててはいけない。

それでも私は常に架空に負けている。
私の気持ちは脳へ留まる事無く、永遠に架空の心へ逃げて行ってしまう。気持ちの多さに心が追いつかない、思うように気持ちをコントロール出来ない。悲しくないのに涙が出た時は、素晴らしいだけの景色が見たい。

「素晴らしいだけの景色なら俺んち!」と言って餃子を掴んだままの茶色い猫が私の肩に飛び乗ってきた(ここは笑う所)

一応その猫の家に行ってみると、
他にも素晴らしいだけの景色が見たい人が大勢いた
大勢の人は手で目を覆っていた

気持ち悪い光景だと思った
わざわざ景色を見る為に赴いたのに、
どうして目を伏せるのだろう?

私は猫の部屋を見渡した
畳の広い和室の襖の奥から風鈴の音が聞こえる

日本画が描かれた襖を開けると、
そこには風鈴と一緒にぶらさがる大勢の人間がいた

他人の視線を感じて上手く景色が見れない
私はどうにかして心を無くさないと


( 2 )水に濡れた髪を鏡の前で乾かしながら、鏡の前の人間の目が少しずつ赤くなっていくのを観察していた。餌をわざと与えられずに醜くなった可愛げの無い兎の目みたいだった。細かい赤い血管が真っ白な眼球に浮き出る。粘膜の上に水分が溜まって、溢れそうになった所で私の瞼が閉じた。架空の心が何処かに消えて、気持ちが脳に戻るまで、閉じた瞼は一向に開かれる事は無い。それを祈っていた

祈りは間違えだったのかもしれない
私は必要のない事ばかり覚えてしまった
間違った祈り方、人を遠ざける言葉

瞼は一向に開かれなかったのに、
心は何処にも消えなかった

何一つ、何に対しても後悔したくない
心という架空さえなければ
物事への感情を知ることもなかったと思う

でもそれだと悲しい
今までの事は本当にただの長い夢だったと理解した時と、
同じくらい悲しい


一体今まで何の夢を見ていたのだろう?
どうしてずっとそんな事をしていたのだろう?
悪い夢なのか、良い夢なのか、
それすら一生分からない
今更夢から醒める方法も殆ど分からない


私は生まれる直前まで、
多数の心臓抜きを読んでいた

これだけ誓いを交わしても