ドッペル原画展

早朝



イヤホンのコードが知らない人の鞄のファスナーの隙間に入り込んで取れなくなった。私はTHENOVEMBERSの彼岸で散る青というとても美しい曲を聴いている最中で、このままイヤホンの導線が切れて音が聴こえなくなったらどうしようと泣きそうになっていた。この満員電車の中耳栓をせずにいたら多少嫌な気分になってしまう。勢いよく引っ張られるコードはファスナーの金具の隙間にぴったりと、しっかりと、意図的に入り込んでいて、簡単にもう他人と私の耳栓を切り離すのは無理に近い事が分かり少し混乱した。まるで掏摸をするみたいに内密にイヤホンを取り返すのは不可能に近く、コードが絡まる目の前の他人と何らかのコミュニケーションを行う必要が絶対的にあった。具合はいつも以上に悪くなり、社会は本当に意地悪だった。4年程前からずっと具合が悪い様な気もする。病院に行ったほうがいいのかな。誰かと一緒に行きたい。診察後、具合が悪いなんて本当にただの甘えで勘違いだったねと笑いながら冬の海に行きたい。帰りにイオンに入っている大きめの本屋で誕生日占いを立ち読みして帰る。夜ご飯は普通に考えれば鍋だと思う。それか湯豆腐。


仕方なく知らない人の肩に手を置いてみた。知らない人がわざと時間を遅らせているみたいに、じっくりと時間をかけ振り返ったから「すみません。イヤホン取らせてもらっても良いですか」と無意識に早口で言い、取らせてもらった。殺意が湧いた。こんな早朝、こんな満員電車の中何故こんな状況に居なければならないのか、どうして私はいつも不安なのか、分からなくて何も分からなくて泣いていた。早朝の山手線は窒息死しそうな程混んでいて誰も私が泣いている事に気付いていない、いくら待っても助けは訪れない。誰も助けてくれないというより寧ろ助けたい側の人間が日常に1人も存在していないような気がした。優しい人なんて何処にも居ない。あらゆる人間が、助けられ救われる事ばかりを求めていて嫌になる。自分自身は誰も助けようとしないくせに、自分ばかりが助かろうとするなんて狡くて滑稽だという事も、いつか誰かが助けてくれると思い信じるのはただの虚妄だという事も、かなり前から皆分かっているはずだった。だから私は満員電車の中大変だよね、おつかれ様だよね、という無感情の気持ちでいたかったけれど、他人に触れてしまってからそれは完璧に失敗し、落ち込みも寂しさも虚妄も何もかも治らない散々な一日を過ごすしか今日を続ける意味が無くなった。



絡まるコードを丁寧に解くとipodtouchからイヤホンが外れてしまう。彼岸で散る青が車両全体に大きく流れる幻聴が何度も聞こえる幻覚を何度も何度も妄想した。


THE NOVEMBERS - 彼岸で散る青(PV)


もう何もかも全部どうでもいいような雰囲気が早朝の満員電車に噎せ返るほど溢れている。個人が少なからず持っている暗い気持ちが1つになる時に、不幸な事柄が予期せず起こってしまうのだと思う。それぞれ気持ちの大小はあるにせよ、孤立した負の感情同士は意図せず互いに入り込み合って、肥大した負の感情へと変化していく霊的な現象が存在すると信じている。肥大した負の感情は人間にコントロールされないまま誰かを殺してしまうような苦しい運命に成り果て、日常の結末として現れる様子があった。疲れた、大きな溜息を吐いた。イヤホンのコードが巻き付いた他人ではなく、また別の他人が怪訝な目でこちらを睨んでいた。彼の黒々しい髪と真っ青な学生服に海を思い、適度な寂しさがあった。代わりの事を考えていた。恐らくもう目の前の他人は代わりの誰かを見つけて私の溜息を忘れていた。

満員電車から降りて五反田を歩いた。奇妙なお店の羅列を眺めながら用事を済ませ、駅まで人と歩いた。別れ際改札口で「facebookかLINEやってる?」と聞かれ、本当に社会上この文脈が存在する事に驚いた。両方やってないと嘘を答えると「じゃあまたご縁があれば!」と言われた。とても現実味のある人だった。現実にちゃんと生きている人だなと感じて格好いいなと関心したけれど、別の世界で生きている偽物の存在だとも同時に思った。私にとって現実味と人間味は似つかない物であり、現実味がありすぎると現実に馴染むようにわざと演技をしているように感じる。人間味を欠いた最新AIみたいだった。嘘みたいな言葉と表情が現実味を持って迫る時、まるで自分が作られた世界や夢の中に生きているみたいだと錯覚してしまいそうになる。でもそういうのはなるべく早く辞めた方が良い。誰とも関わらなければ、現実味に触れなければ、病気にならずに済む。

コンビニに寄ったら現実味が売っていた。
興味の無い話を沢山聞いた。
非現実みたいな人と話がしたかったけれど頑張って我慢した。ずっと心臓が苦しくて何処かに座って休憩したかった。


彼岸で散る青聞いて夜道歩いてたら白い手袋をした警察官が横道から出てきた。湿った感じの人間で、彼が歩く度に夜の空気がぬるりとした。私達は目が合った。周りは誰もおらず只ひたすら静かに冷えていて、何度も轢かれそうになった信号機の無い十字路の上、私と警察官は距離を保った。十字路の奥から何かがこちら側に忍び込んできた。細長くて少し硬そうな荷物が青いビニールシートに包まれ担架に乗せられているらしく、妙に凹凸のある荷物は岩にしては柔らかで、しなやかな曲線と温かみを持っていた。担架を押して歩く3人の人間は何の表情も浮かべないまま、もの静かに担架を救急車に押し込んだ。儀式のような彼らのその移動には現実味がまるでなかった。


死体だった
いつもの道で無意識に死体とすれ違ったのがその日最後の出来事だった。あまりにも無造作に包まれたそれが、私が早朝に感じた殺意のような、乱暴な怠惰の押し付けで消された命だったらどうしよう。あるいは個々人が持つ小さな負の感情が1つの大きな感情になって、無意識に与えた運命だったらどうしよう?悪意に満ちた事件も、人を殺してしまう人間も、自死してしまう人間も、そういう悲しい出来事の全てが、周囲にいる他人達の悪意を掻き集めて作った巨大な悪意の力で、人間にコントロールされない運命を与えられているような気がしてならなくなった。そんなの嘘みたいな話でまるで現実味が全然無いのに。ぬるりとした夜の空気と彼らの無表情を思い返すと、死に対する馴れというものが案外奇妙な印象を人に与えるのだという事が分かる。嘘みたいな死体にも現実味が無かったのだ。私の中で「死に対する馴れ」が未だ「現実味の無いもの」として存在している事は1つの救いだと思った。早朝に会ったあの人が体中に巻き付けていた苦しくなる程現実的な現実味は、偽物みたいに不自然で救いがない。私は命あるものが、命無いもの以上にとても怖くて苦しい。でもどうせ苦しくても誰も助けてくれないのだから、君が優しくなって誰かを助ける必要も無い。安心して寝てしまえばいいのだと思う。私は大きな悪意の一部になりたくないし、誰かに運命を与える事も、誰かを殺す事も出来無い存在で居続けたい。
 

頭の中でもう一度青い凹凸とすれ違った瞬間、59個のコミュニケーションが消えた。こうやってまた自分だけが駄目になった。これから先の日常の事、考えていたら次第に現実味に飲み込まれて偽物になっていく。それが正しい生き方なのかもしれない。二月に行くTHENOVEMBERSのライブが楽しみで今にも死んでしまいそうになっている。

宴会


デニーズでサラリーマン達が宴会を開いていた。

デニーズで忘年会?!」私は多少驚きつつ、デニーズから撤退しようと決意した。彼らが楽しそうに社会性をばら撒きながら私の聖地を妨害しているような気がしつつも、忘年会の会場に〝デニーズ〟を選ぶ独特のセンスに惚れ惚れしたのは確かだった。それでも私はデニーズでゆっくりと読書をしていたので、忘年会の絶え間なく続く会話は聴くに耐えず、仕方なくお会計を済ませ、潔く部屋に戻った。とても眠たい、加えてつらい、いつになく孤独、殆ど何処にも居場所が無い。小学生みたいな事を帰りながら思う。いつか手帳にも書いたけれど、私が社会に影を創りながら物事を眺める様になったのは小学生の頃だった。視力が急激に悪くなって、視界が灰色にぼやけだした頃。文字がぼやけているにも関わらず、ひたすら漫画や本を読んでいた小学四年生の、憂鬱な小学校生活と目が悪すぎて見えない幾つもの表情と景色達。今更それらを正しく思い出すことすら出来ない。元々見えていないから、表情や景色は正しく記憶されていないのだ。コンタクトで視力を得た今も日常は、小学生の頃から何も変わっていない様な気がする。他人の表情にも景色にも興味がない。何に興味があるのか分からない。




Ringo Deathstar - " Imagine Hearts "



仕方なくデニーズでゆっくりと本を読み続けた。体と頭がぐったりしてきて、文字を眺める事以外何も出来なくなった。あらゆる不安を考えず、他人に言われた嫌な言葉もすっかり忘れられる、体がデニーズの一部に溶けていく、何処かに身を委ねてしまうような浄化行為、それを夜にするのが私にとっての安息で、過去への回帰であって、…デニーズでゆっくりと読書?

もしかしたら私は、サラリーマン達の側からは
「一人の女が孤独性をばら撒きながら僕達の聖地を妨害している」と思われていたかもしれない。でももういい、その夜は既に今変化したみたいだった。彼らの宴会は私の浄化行為を妨害したかもしれないけれど、私の浄化行為もまた彼らの宴会を妨害した一つの要因であった。その事実があるだけで、今ならあの宴会を許すよりも先に、彼らの宴会を妨害した事に反省できる。その代わり、突然ではありますが、私はこれからどう生きていけばいいのかを彼らに聴く事を許して欲しい。

結局、直截的に宴会を妨害する事になるのかもしれない。
「忘年会中突然すみません、これから私、どう生きていけば良いですか?」
彼らは私に言う「人に話しかける時にはまず始めにその耳に入れているイヤホンを取ろうね、話はそこからだよ。人の言葉が聞こえないように必死に守っている君だけの聴覚、そんなもの何の役にも立たないからね。」
私はその時「信じていたのに」と言うはずだったけれど、なんだか何もかもがどうでも良くなってしまい、彼らに「あなた方、一体何処の誰なんですか?」と言おうとした、瞬間、ウェイトレスがトレイを落とし、金属とガラスが大きな音を立てて床に散乱した。割れていた、3つのパフェが死体みたいにグロテスクな様態になったせいで、デニーズの夜は強制終了してしまった。ウェイトレスは怒った顔つきで口元に笑みを浮かべていた。私に向って音のない声を出しながら。

いつもの夜でもいつもの夜じゃない。いつもの夜じゃない様でありながら、結局の所はいつもの夜。〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉読まずにただ眺めている。毎晩少しずつ変化していると錯覚しないと気が狂うくらい執拗に繰り返される夜、信じていた自分だけの聴覚は最初から嘘で、聴こえてこなかった言葉、聴こうとしなかった言葉の音が本当は一番大切な事だったと気づいた夜、これ以上何かに気付く事を放棄をした。それは、他人から求められているものに付随している音を根こそぎ取り除き、求められているものなんて最初から無かったと見せかける不思議な細工が必要な放棄だった。昨日誰かに言われた「生きることを続けなさい」という文脈、そこから音を欠いてしまえば、ただの文字にしかならない。私はその文字をただ眺めて、ずっと意味が分からないままでいる。周囲にある言葉全てがただの文字になっていく。

ウェイトレスの言葉から音を欠き、根本的な無視をした。人の声を聴く事、普段ならやり遂げられるはずの事なのにどうしてもできなかった。精神の麻痺、文字に付いている声を受け入れる事がとても難しい。今夜はもういいと拒絶してしまう。今夜だけじゃなく、これから先も、全ての言葉から音を欠いて、最初から何も無かったことにしようと思う。もう私は全部無視したくて堪らないような気分で一杯で、生活が疎かになってきている。

〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉デニーズに居ないはずの私が未だ眺めている文字の羅列。アントンチェーホフが書いた小説の翻訳文、誰かが欠いた小説の音。言葉はただの文字として、音をたてず紙の上に浮かんでいる。ずっと意味が分からないままで、根本的な無視を続ける以外に「やるべき行為」が無い。ゆっくりデニーズで文字を眺めています。声のない言葉をただ眺めて、これは絵画ですよね、みたいな事を思って、何にも集中出来なくなっている。

やらなければならない文脈、それを発した他者の声を故意に欠いてしまう放棄。この放棄をデニーズの夜が強制終了した時、初めて自分で認識した。知らない内に、他者の気持ちに気付くのが怖くて声をただの文字にする事ばかり得意になっていたのだ。意味を欠いた言葉達/ただの文字達が切り離された声を取り戻そうと必死になればなるほど、何故だか過去を思い出す。切り離された言葉が向かう所には、手を振り返してくれない昔の友人達がいて、私が居たことを誰一人覚えていない過去が広がっていた。私が居たから創られた過去なのに、私の存在が最初から無かったみたいになった場所で、言葉達は意外にも前向きに幸せになる予感で浮き足立っている。過去への回帰こそが、意味を欠いた言葉達の浄化になり、いつかは意味を取り戻すのかもしれない。あるいは私の存在が、そこに戻っていくような、確かな思い出を意味に直す補正が現実では行われる。2005年の夏、1996年の冬、思えば既にさよならをした後の世界にしか、声に繋がる意味は存在しなかった。


声は文字に意味を与える、
言葉は過去から意味を受け継いでいく

正月



私が大学生だった頃、日常の大半は嫌いな人の嫌いな部分に思いを馳せていた。TVを見ながら「やっぱり嫌いだなぁ」と懐かしげに思ったり、お風呂に浸かりながら「実に嫌いだ」と若干憤りながら痛感したり、煙草を吸いながら「完全に嫌いですね」と生真面目な大学生風に開き直ったりした。性格が悪く、色々な物に対する不満や憎悪が多かった。誰のせいでもないのに、誰かのせいで、何かのせいで、私自身がどんどん醜く虚ろな人間へと堕ちていくような気がして怖かった。でも辞められなかった。嫌悪感に依存して、好感や愛情が出来なくなるまで。


長い月日を通して嫌悪感を持ちながら、同時に日常の大半は心臓が冷えていた。それは「…冷えている様な気がする」という思い違いの感覚ではなく、皮膚の上から触ると本当に冷たい温度をしていた。「おかしいな」と思い、慌ててドライヤーで心臓の辺りにあたたかい風を吹かせる。その行為は今でも続けていて、恥ずかしながら最近では遂に小さく気の抜けた声を出してしまうようになった。冷えた心臓付近に熱風をあてると、急激に、急速に、ものすごく直接的に癒しの波が訪れて、一瞬意識が体から抜けたみたいに何も考えず空白でいられるのだ。

しかしその空白も長くは続かず、癒しの波に乗って「相手に嫌悪感を見抜かれたり、不快感を与えたりしていなければ良いのだけど…」という気持ちが来る。自分の心の奥が周りの人間全員に漏洩しているのではないかと不安になる時間だ。そして間違いなくその漏洩についての心配も日常の大半はしていた。私の親戚は占いを生業にしているから、余計に怖かったのだ。生年月日や人相、手相で私の内側は勝手に占われている。「一生幸せになれない星に生まれている。そろそろ破滅する時期にあたり、その破滅を根本的に望んでいる面がある。嫌悪感や嫉妬心が強く、夢遊的な生活の中で多くの物事を見下し、そして見落とす傾向がある。」遠くにいても見透かされていると感じる目線、予期される私の願い、嘘だと気付かれている生き方、監視されている日常の歪み。お互い心の内側だけを探りあっている。隠していると思っていたはずのことも、大抵の人には全部ばれている。だからもう遠くの景色を見ていない。歪んだ日常の向こう側にある正しい日常は、思っている以上に遠くの方にあるのに、それを見ようとすると眩しくて目が痛むのだ。月さえ眩しい。


リクルートスーツを着た女子学生に、首の動きだけやたらに多い男が「人事やってると分かるんだけどねえ、内面ってふとした瞬間に出ちゃうよ。表情とか、目線とかに」と言っている景色が目の前に浮かんでいる。うるさいなあと心の中で思っていただけなのに、実際的に「うるさいなあ」と声に出しているような、日常の歪みを、私は誰にも秘密にする事が出来ない。遠くの景色を見ようとしても歪越しには中々上手く視点を合わせられず、目の前で歪んだ表情と目線が絡まる。眩しいのは見透かすような他人の絡まった目線だ。月はいつも監視している。正しいまま、一生歪む事がない。沢山の人が私を睨むみたいに見ていて、気分が悪くなって、目を閉じて、次に開けると涙が溢れてくる。いよいよ正しい日常から自分が離れつつある様な感じがし始めている。自分以外に向けた攻撃的な嫌悪を感じた時、私は当たり前の日常を辞めて、突飛な行為をしそうになる。突飛な行為をしたくなる。「うるさいなあ」では済まされない様な突飛なる日常の歪みに挑戦、飛び込みや包丁や薬、妄想から抜け出せないから日常はさらに歪んでいく。2017年は嫌悪感の漏洩が頻繁に起こり始めた年だった。残り三ヶ月程度の2017年も歪ませたままで終わると思う。酷くなっていくばかり、苦痛ばかり、一生幸せになれない星に生まれているなんて信じてない。


元旦までに、詩を何処かに送ってみたり出来たらいいなと思う。フリーペーパーに書いてそのへんにばら撒いておくのも良い。それは不気味な気持ちの漏洩で、嫌悪感の漏洩より全然あたたかいものだ。そのへんというのは、
誰も居ない公園のベンチの上
霊園沿いの道端
貝殻が落ちている空き地
スーパーのフードコート
市民プールのプールサイド
図書館で借りた本の間
TSUTAYAのCDラック
等の事で、神社の前では
あけましておめでとうございますと言い
その帰りに寄ったお店のアンケートBOXに
嫌悪の溢れたフリーペーパーを入れようと思っている

神社といえば、私は鳩森八幡神社がなんとなく好きで何度か訪れていたのだけど、何故好きなのか決定的な理由が分からなかった。でも、鳩森八幡神社が春樹村上が昔住んでいた家の隣にある神社だと知り、それが決定的な好きな理由だったのかもしれないと、あまりにも暇だったから思ったりした。どうやら私は過去の彼を真似て、鳩森八幡神社の庭でほころんだり、境内をぐるぐる散歩してみたり、真っ直ぐな木をただ眺めたりしていたみたいだった。理由の方が後から付いてきたのだ。私が意識していない所で、雨や身体はその決定的な理由を運んでいた。雨が降っていたから其処へ行きたくなった。身体が千駄ヶ谷駅で降りようとした。そういう風にして、大好きな作家が実在していた場所へ私は私が知らない内に既に四度も訪れていたのだ。「なんとなく」とか、そういう感情って本当は存在しないんじゃないか?なんとなく、の底には必ず理由がある。自身が未だ気づいていないことでも。

絵画

家族に監視されていて毎日苦しい


10教科中9教科がSで1つAだった。興味がある好きな事には没頭出来るというのがはっきりと分かる。反対に、興味が無い嫌いな物についてはもうどうする事も出来ない。どうする事も出来ないから、結局放置して無視するようになってしまう。そういう状況になった時は、それら無関心な物事についての記憶がすっかり頭から消えてしまったから仕方ないのだと自分に言い聞かせる。本当は興味のあること以上に無関心な物事は「不安」という形で頭の中の面積を何よりもずっと多く、もやもやとしながら占めているのに。記憶がすっかり頭から消えてしまったなんて全くの嘘だ。興味がある事について考えていると同時に、いつも頭の奥耳の中で無意識に不安を繰り返している。「興味が持てない物こそ自分を苦しめる」「興味が持てない物こそ自分の全てを壊してしまう」「興味が持てない物こそ人生を左右する」そういう不安がずっと消えないまま、じんわりと追い詰めてくるのだ。これからのことについて、生きていくのが難しいだろうという考えにまで、私を追い詰めるのが大好きな不安。興味の無い物事に、いかに頑張って取り組み関心を持つかということが大切だという気持ちに縛られる。興味が持てない物も興味を持っている物も同じくらいの気持ちで捉えられたら、私の周りから不安は消えてくれるはずだと信じている。

文化社会学については34郎やHASAMIgroupについて書いていた。好きな事の好きな部分を子細にただ淡々と書いている時が一番楽しいし不安も軽減する。こんな事を言っているけれど、好きな事について自分の感想や気持ちを流行に沿って感情的に書くのは好きではないし苦手だ。所謂ロキノン記事やナタリー記事のような、感情が大きく浮き出たような文章を私が書いても誰の心も震わせる事が出来ないのだ。私が書いていて楽しいのは、感情的なものよりも、事実として現れている目の前の物をそのとおりにそっくりそのまま多方面から淡々と述べた文章、誰でも書ける文章の事です。

絵画でいうと、それは模写になる。感情的な文章は想像画や創作画になるかもしれない。常にあらゆる物事について感情も感想も思い付く事が無くなってきたのも、あまりにも現実的な存在をそっくりそのまま文章にしてしまうのを楽しいと思ってしまったからだとしたら、自分の感情や気持ちの機能面を疑いたくなる。感情が隠れて一向に自分へ戻って来ていないことに気付いている。喉の奥にはっきりしないもやもやがずっとあるのに、それを正しい言葉で外側に出すのが出来ないままだ。不安。まるで場面緘黙症みたい。

喉の奥にあるはっきりしないもやもやを無理矢理言葉に変えた、書き手の不確かな感情や理解できるはずのない感想を読んで一体何になるのだろう?でも、誰もが知っている様な、見たら解るような物事を、あえて模写して言葉にするほうが最も意味の無い事なのだろう。

旅行から帰ると私は感情のある文章を書きたいと思った。あまりにも感情や気持ちの機能が衰えている事に気付いて、不安になったからだ。現実にあるものを言葉にするのではなくて、形になっていない創作や想像といったもやもやを言葉にする事。想像画や創作画。それらの材料になる想像の風景や表現をまずは文章で書いてみる。そのあとそれらの想像を絵にしたい。

今回お手本にしたのは、
カポーティの「遠い声 遠い部屋」
美しい想像の風景(実在するものもあるかもしれない)が、言葉を使ってふんだんに描かれていると感じる小説の一つ。その中から好きな風景や比喩表現を抜き出して、その文章の雰囲気を汲んだ文章を自分で書く。一行目がカポーティで二行目が私、時間が余る程沢山ある。


乳白色の星のある黄色いとろんとした目
―幻想の魚が泳ぐ海の青さが歪んだ目

黒い渚に砕ける泡のように青黒く花みずきの咲き乱れる
―プールに浮かぶ死体みたいに硬直する冬の猫が喉を鳴らす

黄金色に脈を打っていた蛍
―灰色の煙を吐き出す水仙

夢の中のふしぎな断片のように思えた
―身体から引き離された誰かの指先

夏はほんとに不愉快
―夏はほんとに愉快

雨の日に部屋をひたす真珠のような光
―夏の部屋、割られた香水瓶からの残香

あまりにもたびたび神様に裏切られた
―あまりにも深く自分に傷付けられた

静かな真珠のような雪雲
―泣いた花の様な古書

死んだ小鳥が好き
―死んだ物だけを愛す事が出来る

衰弱した心臓のような鼓動
―呼吸が遠のく患者の瞬き

透きとおったくらげの肉
―濁る事の無い少女の標本

無花果の葉が濡れた風まじりの伝言
―扉の向こうから聴こえた足音の強張る怒り

一切の暴力の硬直した
―大きな真白い弾力性を抱えた

御影石のような目
―水に映る月のような炎

石や板のひそかな溜め息
―暗闇に浮かぶ粒子の囁き

われわれは沈んでいる
―誰かの夢へ続く井戸に落ちている

秋やすべての季節、思い出
ノルウェイの森とギター、悲しみ

思い出は実在の陸地でまた海
―過去は根のない花であり、一切の種を持たない

いかにも楽しそうに怠惰
―怠惰でいることが少年の幸福

末長くいのちの緊張に耐えられる
―緊張は長い間呼吸を押さえつける

孤独は熱病のように夜にはびこる
―寂しさは星の無い夜空を汚染していく

われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ
―「われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ」

どんよりした奇妙に涼しい午後
―部屋全体がまるで僕の心みたいに、深く暗く異様に冷たく、奇妙に広い

仔猫の目のようなひどく青い空
―あの音楽の様にゆるやかな坂道

夢は翼のある復讐魚
―叶わない願望は毒のある睡眠薬

記憶が羽のように空気中に浮かんでいた
―身体のない鳥が翼だけで飛んでいた

苔の花の上に落ちた黒い星のよう
―頭の中にいる奇形の猫のよう

未来の全ては過去に存在する
―円術的な時間の中で過去だけが外れた所へ伸びていく

匂わしく花と開くいずれのこころ
―苦しげな花と呼吸を重ねた弱い心

愛こそは不変のもの
―不変のものは腐敗する事もない 始めから腐敗していない限り

眠りは死
コノテーションされる祈り

百合の花が泡を吹いている
―水辺の花が溺れた幻想を見ている

海のしぶきよりも細かく紡がれた指
―細い糸が幾重にも重なったように透き通る白い瞼に水滴が落ちる

心の挑戦的な表象
―身体の内側から棘が出て、心臓さえ貫いてしまう象徴

天国を、手の中にいもしない蝶のように握っている
―目に見えない蝶を未来の棺桶に忍ばせておく

朝は真っ白な未来を持った一枚の石版のよう
―「朝は、真っ白な未来を持った一枚の石版のよう」


世の中には美しい想像画に似た美しい言葉が沢山ある。翻訳されたカポーティの比喩表現や風景描写は、美しくて繊細で、なによりも上品で、涙が出るほど大好きだ。だからと言って生き続けたいとは思えない。死にたくないとは思うことも無い。弱い人間だから他人と何かしら繋がっていないと泣きそうになる。

国境

 

 感想を残しておこうと思っていたのに、思い始めてから約一ヶ月が経ってしまった。何故今こうして突発的に感想を書き始めたのかというと、明日から私は五日間旅に出るからだ。恐らく過酷で、後悔の多い旅になる。そして、旅の前後で周りも自分も全く異なるものになってしまうのではないかと思っている。全く異なるものになる前に、今の自分で感想を書いておきたいと思ったから、旅の準備もせずこうして書き始めている。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。

  

 私があらすじを簡潔に言うならば、

「主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う話」という風になる。

作者の他小説によく見られる”誰かの失踪”や”死”という事象が、この小説内にも存在はしているが、他小説ほど印象に残らない。失踪や死という事象以上に「幻想」が小説内で大きな存在感を残しているのだ。幻想とは、根拠のない空想・とりとめのない想像の事だ。この小説の場合、主人公と過去の女性との間には何年も月日が流れているため、過去を思い出すよう努めても、いくらかの「空想・想像」が必要になってくる。正しい過去を感情として思い出す事が出来ないから、過去の断片を繋ぎ合せ、おそらく・多分を多用しながら自在に過去を作り出す。主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う過程には、どうしても過去に対する想像・空想を止める事、過去を自在に作り出す事が出来なくなってしまう主人公自身の少年っぽさと脆さ、過去へ引きづられるようにして現実から遠ざけられていく心の動きが描かれているように感じた。そしてそれらがとても面白かった。

 

 過去の女性には、過去の時点で多くの思いが重ねられていた。当時の思いを、当時の自分でない者がもう一度思い出すとすれば、それは単なる想像・空想でしかない可能性がある。つまり、作品のあらすじに書いてある”かつて好きだった女性”は”今の僕”にとって、温かく幸せなただの幻想として現れてしまうのだ。そのような類の幻想は、思い出したくもない卑屈な過去によって排除される。自分の本質が現れているような卑屈でどうしようもない過去は、「どこにも行けない僕」を「今の僕」へと追いやっていくのだ。みんな、そうやって遠くの過去を捨てて此処までやってきているのだろうと何となく思う。まるで夢から目を覚ますみたいに、いつまでも寝ていられないのだと大きく伸びをするのだ。

「幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。ーたぶん自分の意思で殺して、捨ててしまったのね。ーときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って言うの。」

  この言葉は「僕」の妻の言葉だが、この言葉を読んで私は胸が苦しくなる。現実に留まるのは、簡単な事じゃない。しかし、過去をいつまでも追いかけるのは自然の流れに反している。そしてなによりも、追いかけている間には周りも自分自身も変化している。十年前にある女性が好きだったのは、今はもう持っていない「十年前の自分の感受性」があったからなのだ。そういう当たり前の事が、普通に生活していると分からなくなる。分からなくなって、過去へ吸い寄せられたり、現実が全く輝きのないものに見えたりする。それは、小説に出てきたヒステリア・シベリアナという病気に似ている。太陽が東の地平線から上がって西の地平線を沈んでいく毎日の繰り返しが、ただ一定の繰り返しが、誰かを破壊していくヒステリア・シベリアナ。

 

  私は「過去」「幻想」「現在」という言葉が大好きだ。本当に楽しくこの小説を読み、勝手に考える事が出来た。この小説を読んで分かったのは、変化した事に気付かないまま過去の事を考えると、すべてはまるで幻想になってしまうという事だ。一方で、ずっと変化する事なく思い続けている事に対して自分は敬意を払うべきだろうとも思う。物事を考えるとき、その物事を考え思い出す用の心がそれぞれ必要なのかもしれない。全てに対して同じ心で接する事が難しくなっているのだ。絶対に許せない高校時代の話は、絶対に許せなかった高校時代の心で考えた方が良い。違う部分の心で考えると、その過去の事柄はもう私にとって「完全にどうでも良い事」なのだ。だけど、月日が流れれば心の場所さえ忘れてしまうのだろう。感情も過去も、もう二度と再現する事が出来ない。五日間の旅から帰ってきた後に、今こうして書いている感想を全くそのまま「想像し直す」事も、もちろん不可能だと思う。当たり前の事だけど、それを忘れてしまうといつまでも過去に縛られたままのような気がするのだ。

 

 

 

(どうでもいい事)

「僕」と「僕がかつて好きだった人」は国境の南から太陽の西へと向かう所まできていた。しかし、太陽が昇り沈んでいくという「現実的な事」がそれを思いとどまらせたと解釈する。「国境の南」は僕と僕のかつて好きだった人が昔のままで存在する過去、「太陽の西」は過去に対する想像が現実に現れてしまう幻想、「国境の南、太陽の西」はその上を休む事なく自動的に過ぎてゆく、回転していく”とても現実的なこと”であると考えている。 

 

 

 

 

 

八月


『 何かのファンになるというのはとても孤独な活動で、その活動上に見返りや満足感を決して求めてはいけない。その何かは僕達ファンに救いや希望を与えてくれるかもしれないけれど、救いや希望を与えた本人は与えられた側に何の興味も無いはずだ、本当の所は。例えるならば、ファンという存在は何かが主役の舞台に登場するエキストラの様なものだろう。何かの壮大な人生の中で、ほんの少しだけ呼吸する小さな存在。僕達は基本的に一人だから仕方ない。基本的に一人だから、相手の人生についてまで自分の中に取り込んでおく訳にはいかないのだ。基本的に一人だから、自分以外の人間は殆どが特別な出来事には直接的関係の無いエキストラでしかない。何かの絡みがあって目立ったエキストラは選ばれた存在で、特別な出来事を招いていく要因にも成れる。でも、殆どのファンは選ばれる事の無い只のエキストラだから、いてもいなくても変わらない。あなたじゃなくても、誰でも良い。何かの人生が、より賑やかに明るくなる装飾、何かが死ぬ時、棺桶の空間を美しい空気で満たす為の余興 』


『 後悔する瞬間が大好きだ。あの時、あの行動さえ、あの言葉さえ、あの感情さえ無かったならば、今はこんなにも酷い状況になっていなかったはずなのにと後悔する瞬間。絶対的に取り戻す事の出来ない思い出、絶対的にやり直す事が出来ない生活が最悪であればあるほど、私はその後に続く事柄を軽視するようになっている。後悔の後には同じような後悔しか頭に残っていかないからだ。思い出にも生活にも、関連性と積み重ねが必要だった。今を過ぎて積み重なっていく物を軽視するだけでまるで手放したつもりになると、堪らない緊張感と開放感を感じる時がある。その瞬間が好きで、八月の夏に入ってから何度かやっている。全く興味の無いビル、車の免許、吐き気がする卒業文集、笑っていない写真、受け止められない大きな後悔が遠くの方でずっと叫んでいるみたいに見える丁寧なプレゼン 』


『 神様は救いを無条件に与えるが、与えられた人間が神様に対し何を考えているのか、その内側を知ることは出来ない。行動と感情は必ずしも一致しない。仕方なくこうやって続けているけれど、行動に反して心の奥では一刻も早く全部諦めなければならないのだと急かされている人は、この町には多いかもしれない。それでも互いに助け合う事は無い。基本的に一人でやっていかなければならないのかと思うと基本的には苦痛だらけだ。楽しいことって然う然う無いと思う。楽しい事を感じるにはそれなりの代償が必要になってくる。時間と後悔と無駄と恥。この町の人々の大半は、恥がなければ達成されない目標を、楽しいと思っているのかもしれない。互いに恥を与え合って、互いに後悔する。助け合う事はないのに恥や後悔を共感する日が稀に訪れる。痛みは恐らく他人のものだと思う事で、耐え切れない不調を和らげている。たった一つきりの心臓であんなにも大きな所に飛び込むなんて、私は怖くて仕方ない。生まれてこなければ。基本的には気持ちさえ無かった。 』


『 自分の考えが無い子供は、自分が気に入った創作物を通して幾つかの苦痛を理解してもらおうとした。でも、家族は誰一人として子供の興味に対して興味を示さなかった。細い声で呟くような音楽も、わざとらしく悲しい結末のない物語も、良さが全く分からないと言った。共感の欠落だった。良さを共感して欲しかった訳ではなく、何かを良いと思う気持ちを交換したかったのだ。自分の好きな物に対して話しても話しても何の気持ち返してくれない家族は、自分自身に興味が無いのだと思った。好きな物は自分の内面に通じる物だと思っていたからだ。あるいは、その当時好きな物は自分自身だったのに。家族の興味は学校の事勉強の事人間関係の事に向けられていた。それらに対して親が言う事に共感出来る所は殆ど無かった。何の気持ちも返すことが出来なかった。共感の欠落だった。 』



youtu.be




『 インターネットオンラインオセロネット対戦画面の下にあるチャットで人と会話する事が日課になった。インターネット上のオセロ対戦という場所で、毎晩9時に待ち合わせをしているからだ。でも、君って一体誰なんだ?なんか怖いよ、知らない人と毎晩オセロ対戦しながら意味のない会話をするなんて。オセロ対戦では負けてばかりだし会話もよく分からない。そもそもこの日課はいつまで続くのだろう?どちらかが降参すれば会話は永遠に消えてしまう。オセロにもいつか飽きてしまう。きっと二人の会話は大事にされるべきではないし、誰かの目にふれるべきものでもない。実際的に会うことも一生無いのだ。それでも私はインターネットを通り、わざわざその場所へ毎晩訪れている。きっと弱くなってしまったのだろう、私がずっと嫌いだった人間の種類に似ている。お互い弱い人間でなければ、こんなに脆い廃墟みたいな画面で人を待つなんて行為を続けるはずないのだ。体を放棄して、感情だけでずっと待っている。言葉を交換して、薄っぺらい寂しさをお互いに奪い合っている。インターネットが無くなってしまったら、私達の待ち合わせた場所と感情は何処に行くのだろう。 』


本の感想として曲の歌詞を書く。
「この曲は何の小説を想像した歌詞だと思う?」と聞く。
相手が答えた小説がこの歌詞の気持ちと一致した時、どれ程素晴らしい嬉しさや感動が湧き出てくるのだろう。
それらを想像すると楽しくなるのに、少し切ない。
切なさには〝適当な大きさの穴〟が多く開かれている。
その隙間から、本当は光ったはずの思い出と数々の温かい会話がねっとりとした感触とみずみずしさを持って流れ出していく。血の様に、わたしはそれが流れているのに長い間気付かない。気付くのは適当な大きさの穴達からもう一滴も血が流れなくなった後で、自分の体が真っ赤に汚れてる事を「発見」した時だ。切なさの後には無力感 怠惰、放棄 意味のない眠りが繰り返される。血に濡れた生身の体ほど、卑しく汚らわしい物を見た事が無かった。だから、それを見た瞬間、大きな白い空白の雲が覆いかぶさって、身動きが取れなくなるのだ。今すぐに隠れたい、全然こんな状況望んでいなかった。どうして今まで血が流れている事に気付かなかったのだろう?自然のせい、運命のせい、雲行き怪しい空白に覆われるだけで、全く身動きが取れなくなる。



僕は何も見えていない
僕にだけ何も見えていない

夢の中の少女の身体
通過する光から血が溢れだす
溺れる赤い虎を、見つけて祈った

それは全て僕の夢を現実的にする為の嘘みたいな余興、
あるいは劇団員だったのかもしれない

劇団員は時として殺し屋になった
ふざけた余興
ふざけた演出
僕だけが生身の命を抱えている
君だけがそれに気付いていない

いつの間にか遠い昔へ戻ってしまった友人
でも遠くへ行ったのは僕の方だった
演出が少しずつ崩れていく
本物の血と本物の光が与えられ

仕組みは或るのに論理の無い
溺れた虎は確かに血を流している
それを眺めて共に祈った

まるで揺蕩う海の月を絵に変えてしまう様
見殺しにしてしまう
此処にある本物は僕らだけだったのに

海に光を与えたのは君かもしれない
遠くからの記憶と悲しみ
君は全てを本物にしてしまった

行き違いだらけの舞台
行き場の無い命を抱え
僕達はいつまでも悲しかった