ドッペル原画展

破壊

 

 全てを"ぶち壊す"といった出来事が日常には多々あり、壊す対象が何であろうとも、その出来事は強力な破壊力を持っている。壊された側の空間に居た自分や、そこに含まれていた時間は二度と元には戻る事はない。その時の状態がそっくりそのまま現れ、再考される機会すら永遠に訪れないだろう。

だから、全てを"ぶち壊す"というのは、圧倒的な罪であり、其処にあったはずの空間そのものを奪う出来事なのだ。それでもなお罪が裁かれないのは、破壊する罪は自分が自分に対して犯す事が大半であり、自ら望んで罪を犯しているような気がするからである。望んだ罪、望んだ破壊であるならば、当然裁くにも裁ききれない。

妄想を壊す更なる妄想、現実を壊す更なる現実、過去を壊すそれ以上の過去、それらが積み重なり何度も傷付いた妄想や現実や過去は私が破壊をした罪と共に体の中に永遠に残っている。つまり、これからの生活は破壊され尽くされた様々な時系列の層が、何度か作り替えられ、そしてまた同じ様に破壊を繰り返すだけなのである。それに加え、むしろ妄想は現実に壊されるし、過去は現在に、そして現在は過去に、未来は現在に破壊されていくのが大抵のありふれた生活であろう。

妄想は現実に壊されず、過去は現在に壊されないような仕組みがシステムとしてあったらよかったのだが、そうもいかず、今日も妄想は現実に"ぶち壊され"、現在は過去に"ぶち壊され"ている。私が一番苦手なぶち壊しが「快感」である。ゆるやかにリラックスした現在の中に突然快感が現れたら、全てがどうでもよくなってしまう。妄想の中に感触や温度や痺れのある現実の快感が生まれたら、あるいは現実のなかに何の感覚も持たない快感が生まれたら、そこにある空間は乱れ壊れていくのだ。考えてたことが流され、思考が快感だけになる時、何度も壊れた現在の層が、妄想に破壊される感覚が襲ってくる。

 

 私には夢見る時に思い出される"ぶち壊し"がある。それも、ただの破壊ではなく、一種の快感を孕んでいる可能性のあるぶち壊しだった。それは小さな暗闇の中から少しずつ始まる映像であり、壊される時は、最後に見えた光景が一枚の写真のように堅く守られている。

私と彼の間には腕で抱き抱えられる程度の小さな暗闇がある。寧ろその小さな暗闇しか存在せず、私達の周りには何も居ないと思える程だった。暗い山に囲まれた道を登りきり、コテージの前に集まった小学生達の中に私達は属していた。小学生達は課外学習の最中であり、キャンプファイヤーの準備の為、規則正しく並んでいる。私達もその一員の筈だったのに、その時には私と彼は少しの暗闇をお互いに抱えあい、それを透かしながら言葉を交わそうとする雰囲気があった。

小さな暗闇が波打つ様にうねった時、彼が私に「なんだか足が痛くて、どうしよう」と耳打ちをした。私は一応心配しているふりをして「大丈夫?怪我?」と聞いた。彼は原因は分からないけれどとにかく痛いんだ、ちょっと足を見てくれない?でも此処だと周りに人が居るの"かも"しれないから、向こう側で足を、懐中電灯は僕が持っているよ、と言い、私の手首を強く掴んだ。小学生の集団から遠く離れた林の中、彼は気分が悪そうな顔をして座り込み、早く見てよ、と言った。その時私は訳もなく緊張し、手が震え、彼の体操服を捲る事が出来なかった。それは恐らく、何故彼が暗闇に連れ込んだのが私なのか、そして何故具合の悪いふりをするのかが分からなかったからだ。そんな私を見た彼は次第に苛立ち、呼吸が荒くなる様子を大袈裟な素振りで見せた。そんなに苦しいのか、そんなに怪我が痛いのか、何故そんな嘘をつくのだろうか。私は彼が嘘をついている事は分かっていたが、その場で用意された「彼が病気」という重苦しい設定に圧迫され、そして洗脳されたように彼の病気を早くどうにかしなければならないと心臓の鼓動が早くなり始めた。彼の足は、今にも腐り、溶け出し、血が流れ出す寸前だったのだ。

「保健の先生呼んでくる!」と言いコテージの前へ駆けようとすると、彼が目を見開いて見てよ、と静かに言った。

 

痛い、病気かもしれない、

と言いながら彼は自ら体操服を捲り上げようとしていた。その時の顔は完全に笑っていて、私と目が合うとさらに笑った。その粘着性のある濃い表情で私の現実は少しずつ破壊されていく。笑った顔を誰かが殴りはじめ、顔の形が無くなるくらいに壊されると、崩れた肉片から新しい口が生まれた。その大きく赤い口は耳の辺りまで裂け、そして再びにっこりと笑う。捲り上げられた足の色はなぜか真黒であり、時々皮膚の色が奥から覗いているらしかった。なぜこんなにも色が変化するのだろうと考えていると、彼の足に歪な凹凸が出来ているのが分かった。その凹凸は彼の足を上へ行ったり下へ行ったりし、予測不可能な曲線、あるいは円を描くように、あてもなく彷徨っていた。しかしそれは、単なる動きではなく、何かが彼の足を侵食し、貪りつくように、激しく、そして気味の悪い蠢きだった。

 

彼の足には無数の黒い芋虫が張り付いていたのだ。その風景で映像は終わり、次には瞬間が閉じ込められた写真になる。彼が無数の虫に身体を犯されている瞬間の写真だ。その写真が頭に浮かび「彼は何故それを私に見せたのか」を考えた瞬間の、自分の頭のなかで起こった回転にこそ、快感が含まれている。そして、その回転の遥か前にいた自分や時間は元に戻らず、破壊されてしまうのだ。この映像と写真にぶち壊される前に、私が考えていたのは一体何だったのだろう。覚えているのに思い出せないような、覚えているのに思い出したくないような気持ちになるのは、この圧倒的な破壊力のせいだった。「普通の日常」というのは、圧倒的な破壊力に壊されるべくしてあり、そしてそれらに侵食され、私にさえ忘れ去られてしまう事柄のことなのかもしれない。

 

私が考えたのは「彼はもしかしたら私が彼を"気持ち悪い"と思うことが目的で、気持ち悪がっている私を見たかったのではないか?」という事だった。そして、その様に考えて自らの足を差し出し、貪られる事を選んだ彼の事を考えると何故だか気持ちよくなる事に気付くのは、いつも破壊の後だった。気持ち悪がられることが気持ちよい彼と、気持ち悪くなることが気持ちよい私の精神的な関わりは、今でも日常の中に破壊する快感として、夢の狭間に現れている。

 

気持ち悪くなれば気持ち良くなってくれる人がいる世界が、とてつもなく不気味だった。しかし、自虐的な身体の晒し、性の歪み、間違えた方向へ伸びた男性的な強さに対して、愛や母性を感じるということ、そして「不気味」「恐怖」「異常」を感じ精神的に傷付く見返りに、相手が快感を感じて"くれる"のが嬉しく、傷付いた痛みが異常なやり方で治癒されていく感覚に少しだけ満たされたのだ。彼は、私がこのような感覚を感じやすいということを、見抜いていたのかもしれない。あの時、初めて彼の為に彼の事を気持ち悪くなった時、彼と私が抱えていた少しの暗闇が弾け、回りの空気に溶けていった。彼は「好きだよ」と言っていた。

 

水辺

骨から血が出ることはありえるのだろうか?
痛みもなく、怪我の気配もなく、血の出処もないのに、足首の骨から血が止まらなくなっている。急いで日陰に入り、ハンカチで拭った、止まらない血が怖い、こめかみが痛む、丁寧に溜息を吐いて、視界が曇ると、なんだか一気に死が近くなる。


死が近い時は夢で見た大きな月の光を思い出す。紫色と青色の光が反射する細い川の上、浮かんだ小舟から大きな月を見ていた。枝垂れ柳が頭に触れていた、枝垂れ柳が頭に触れている私を私は眺めていた。この景色を、夢の中を、誰も知らないという事実に私はいつも驚く。夢は正真正銘自分だけの秘め事だと思っていた。自分だけの夢、その中でしか人は独りになる事が出来ないとすら。自分以外の誰もが知らない、あの大きな月の光を映像にしてみたい。そう思ってなんとか夢を映像にする。完成した秘め事を君に見せたら言われるのだ「これどこかで見たよ、どこかで、そうだ、映画の景色だ。僕の大好きなシーンだよ」夢は記憶の中で作られる。自分だけの物なんてこの世に何一つ存在しない。思い出も、自分だけの世界も、全ては他者との共有物だ。一つだけ独占できるのは、自分の体内にあるものだけである。血だけ、血そのものだけ。

痛みも無く足首から血が滴るのを見ている。意味の無い血液、痛みの無い血液、血が止まらない皮膚の表面を指先で触れても血液の原因が見つからない。何の為の血なのだろうか?痛みも原因も怪我の気配もなく、ただ血が突然骨から皮膚を通して湧き出てくる異様な状況が、とても大変な事に思えて、いつもの不安定が始まってしまう。終わりが近くなって、急に始まりも近づく。それは、死が近づいて、生が近くなるのと同じ事だった。全部同じに見えた。生も死も、良い事も悪い事も、好きも嫌いも、全部が同じなのだ。スマートフォンが重い意志で、治りかけの感染症がまた熱を帯びて喉元を溶かしていた。身体の中で地震が起こっているみたいに揺れる感覚と一緒に、私だけの血液が私から意味も無く出て行く様子を見ていた。私の中から私が出ていき、少しずつ居なくなっていく様子をただ眺めていて、視界の中では逆さまになったペットボトルからの水が足首を濡らし、水滴が垂れる映像があった。地面には小さな水たまりが出来上がり、水辺は少し赤く見えていた。


夢の中を誰かと共有したいという気持ちは、内側に秘めている自分だけが知るそれを、開放させたい気持ちと似ている。結局しかし、夢は自分だけの物では無い場合が多い。私が見た大きな月の光の様に。誰にも知られてはいけない類の異常な気持ちを敢えて見せつけ、気持ちが良くなる不純な行為は、夢では体現出来ない事が殆どなのだ。ならば、血ならどうだろう?血液という唯一自分が独占できるそれが、勝手に外側に出て行ってしまうのは、不純な行為に似ているのだろうか?私の中にある秘め事が開放される、誰にも知られてはいけない類の感情が血に混ざり身体の外へ逃げていく。その様子は私の中に私が居ないと感じる原因に結びつき、簡単に私を混乱させた。感情が溶けた水辺を指先で掻き混ぜ、何もかもが汚いと思った。

何もかもが汚く、そして不純であり、正しい順番や大切にするべき物事の並べ方と順位付けの方法が分からなくなっている。何もかもが汚いのに何もかもが眩しく見え、全てを大切にしたいと思えば思う程、全てが全く大切では無い物だと勘違いしそうになる。部屋の明かりすら眩しくて目が壊れそうになり、目を閉じながらここ最近の感情は否定されるべき物だったと思い返している。何かを感じる事が罪になってしまう気がし、39度の熱が出ても何も感じないまま救いを求めた。沢山の感情を詰め込んだ人々、人の気配が私を一番混乱させてしまうのだ。混乱、罪が怖い、取り戻したい、内側から逃げていった血液と、そこから出て行った沢山の感情を、一つ一つ思い出せば全て外に消えていた。そして外に消えた感情なんてそのまま忘れられていた。私は私に忘れられた。


空になった身体に、出て行った血液の代わりに、いけないものが入り込む。そうすると満たされ、私は消えた私を取り戻す気力すら「無くていい」という気持ちになる。本当は必要なはずのものでも要らなくなる程の匂い、呼吸、液体、感触、君の全てが私の何処かで居場所を作り、少しの水辺を泳いでいる。

私から大切なものが吸い取られる代わりに、水辺に泳ぐ魚が増えている。溶けていってしまいそうな魚、尽くしても尽くしても、満たされてはいけいない場所が満たされて、私の身体は空のまま軽い。水辺、 泳げなくなった私の代わりが、赤くなって足首から滴っていたのだと分かると、不安定な揺らぎは消えていた。知られてはいけない類の感情を受け取っている、解読もせずに、秘め事を交換し合っている。 水辺ばかりが大きくなり、その中で透明な魚が泳いでいる。それが赤い色を帯びるまで。眩しさから逃れたい。

眩暈


 私が誰かを信じる時はいつも全身全霊で、裏切られた時は命の一部が欠けてしまう感覚のせいで呼吸が苦しくなる事を誰にも言った事が無い。私の命はもう何度も欠けていて、実際に見る事は出来ないけれど、あと五回くらい欠けたらきっと消えていく。信じていたのに、同じ質量の気持ちじゃなかった。信じていたのに、あまりにも私が個人的で、誰かと一緒にいてもいつまでも精神的に一つになる事が出来なかった。私が生活に求めているのは、精神的に一つになりたいという事だけだった。他人と自分の間にある深くて広い境界線を越えなくては精神的に一つになれない日々が、いつも怠惰で陰鬱で、毎日をくだらないものにしていた。でもそれだけが大切な事だった。

 境界線を超えれば日常は渇いている。今までずっと好きだったはずなのに、せっかく境界線を超えたのに、その先には空虚な時間だけが続いている。好きだった記憶すら消えかかっている。何かと精神的に一つになるには、気持ちと日常を捨てなければならない。一つになる代わりに、幸せの中にあったほんの少しの悲しみと他人の悲しみが全部凝縮されたような、苦痛の時間を知らなければならない。もっと早くこんな時間の事を知っていたならば「精神的に一つになりたい」なんて事考えられない心を選べたはずなのに。何も超えようとしていなかったあの時は良かった。あの時がずっと続いていれば、私は強くて一人でも大丈夫な人間になれたかもしれない。今思い返せば精神的に誰かと一つになれたような感覚を知ってしまったせいで、私は一生私自身には戻れなくなったと思う。でも今では何かを超える事が以前のように気持ちの良い事であると感じる事が少なくなった。何かを超えた先にあるものは、全て私の心に残らない無駄な物だと思っているからかもしれない。もう思い出が更新されない日々、もう元には戻れない日々の話。私が一生私自身に戻れなくても、そのままでもいいよと誰かが連れ出して、一緒に居てくれればそれだけで気持ち良くなれるような、鈍い頭が痛い。


『私は生きながら、経験した出来事や聞こえた音の景色を、全て丁寧に録画していたつもりだった。録画を見さえすれば、忘れてしまった楽しさを、息が浅くなる程の眩しい思い出を、確かに過ぎた時間として受け入れられると思っていた。自分でさえも過去にはこれほどの眩しさに包まれていたのだ、という紛れもない夢のような事実を知ることで「ただ今が狂っているだけなんだ」と安堵する為の録画だった。確かに私の今は自分でも病気に犯されたのかと思うくらいに日常が頑張れなくて、先の事が考えられず、いつも苦しくて誰かに頼っていないと押しつぶされそうになる。鈍い頭がぼんやりしていて、身体が浮かんで飛んで行ってしまいそうで怖くなる、だからこそ思い出や過去に過ぎた確かなあの時間を求めている。一緒に駄目になりたかった、再生の風景を見た後の私の目には何も残らず、眩しい風景は1秒も見当たらなかった。私には何一つ思い出が用意されていない様な気がした。録画されていたはずの映像が機械によって勝手に編集され消されていたのかもしれない。おかしいなと思いスローモーションでもう一度再生の風景を見ると、再生の風景というアルバムを初めて聞いた時の風景が居た、少しだけ眩しい風景だった。単に再生の仕方が猥雑すぎて、大切な物全てを見逃していたのだ。時々眩しい風景を交えながら再生があっという間に終わると、くだらない映像と繰り返しの行為が膨大な時間となって何かを満たし、炸裂しそうな勢いを持ったまま映像を乱していた。もう録画する容量が残っていない様に感じられた。これ以上同じ映像が増えれば、もうその映像は録画される事は無いだろうと思った。何度繰り返しても、何度録画しても、私は何も変化する事がもう出来ないからだ。此処から先の人生は録画される事の無い付け足しの無料放送の様なものだと認識する事で、乱れた映像は次第に元に戻っていった。』


 何かを超えた時に感じるのはこういう映像の乱れと意味の無い放送の事だった。私は最近ずっと意味の無い映像の中に居て、明日には全て消えてしまう儚い出来事を諦めて、苛々しながら耳を塞ごうとしている。眩暈、

 映像の中にはこれからの事に対する示唆が含まれている様に感じ、示唆らしきものを抜き出していくといくと、あれは一体何だったのだろう?と思うような光景が大量に見て取れた。というよりも、再生の風景全てが示唆だった。初めから最後まで全く意味が分からず、何が起こっているのか検討がつかなかった。不登校気味だった生徒の母親に「あなたのおかげでうちの子が学校に通ってくれるようになったのよ。ありがとう」と突然感謝されたけれどあれは一体何だったんだろう?雨の日に図書館で本を読んでいたら、体中を雨で濡らした母親が入ってきて「ここで何してるの?」と泣いていたのは一体誰のせいだったのだろう?仏壇の前で土下座させられながらごめんなさいと言った日の夜、真っ暗な山の中不安定な道を車で走っている風景、蒸気した肌を包んでいる青いストライプのワンピース、隠された制服、全部一体何の為に起こって、何の為に今でも私を苦しめ、眩しい思い出を隠していくのか分からなくなった。以前読んだ小説に「日常は示唆で溢れている」という様な意味の台詞があり、私はそれを素直に受け入れていた。示唆は思い出、再生の風景でしかない。

 思い出に対する責任は、誰がとってくれるのだろうか。確かに過ぎた時間のせいで、私の今が狂っている。私の今に対する責任は、全て思い出に、沢山の示唆にあるはずなのに。あの時私はあまりにも人生を軽視して、どこにだって行けるような気持ちを抱き続けてしまったのだ。沢山の示唆を見逃したまま一生戻れない。確かな時間を一緒に過ごした友人の名前すら今では覚えていないなんて、思い出に対して無責任だと思ってしまい、そういう細かい意味の無い罪悪感ばかりが、胃の奥に溜まっていく。これから先は録画される事の無い様な価値の無い物だと思える程、本当は私はまだ何も頑張っていない。その事に気付いているのに何も頑張れないのは、単にくだらない日常から抜け出すのが面倒で怖いからだ。精神的に一つになろうとする時の、あの丁寧に溺れる感覚が癖になっているからだ。毎日溺れようと目眩に耐える日々の中で、自分が駄目になっていく景色を、私をこんな風にしてしまった示唆へ見せつける行為に堪らなく興奮してしまう。

こういうの気持ちの事をなんていうんだっけ?



 

早朝



イヤホンのコードが知らない人の鞄のファスナーの隙間に入り込んで取れなくなった。私はTHENOVEMBERSの彼岸で散る青というとても美しい曲を聴いている最中で、このままイヤホンの導線が切れて音が聴こえなくなったらどうしようと泣きそうになっていた。この満員電車の中耳栓をせずにいたら多少嫌な気分になってしまう。勢いよく引っ張られるコードはファスナーの金具の隙間にぴったりと、しっかりと、意図的に入り込んでいて、簡単にもう他人と私の耳栓を切り離すのは無理に近い事が分かり少し混乱した。まるで掏摸をするみたいに内密にイヤホンを取り返すのは不可能に近く、コードが絡まる目の前の他人と何らかのコミュニケーションを行う必要が絶対的にあった。具合はいつも以上に悪くなり、社会は本当に意地悪だった。4年程前からずっと具合が悪い様な気もする。病院に行ったほうがいいのかな。誰かと一緒に行きたい。診察後、具合が悪いなんて本当にただの甘えで勘違いだったねと笑いながら冬の海に行きたい。帰りにイオンに入っている大きめの本屋で誕生日占いを立ち読みして帰る。夜ご飯は普通に考えれば鍋だと思う。それか湯豆腐。


仕方なく知らない人の肩に手を置いてみた。知らない人がわざと時間を遅らせているみたいに、じっくりと時間をかけ振り返ったから「すみません。イヤホン取らせてもらっても良いですか」と無意識に早口で言い、取らせてもらった。殺意が湧いた。こんな早朝、こんな満員電車の中何故こんな状況に居なければならないのか、どうして私はいつも不安なのか、分からなくて何も分からなくて泣いていた。早朝の山手線は窒息死しそうな程混んでいて誰も私が泣いている事に気付いていない、いくら待っても助けは訪れない。誰も助けてくれないというより寧ろ助けたい側の人間が日常に1人も存在していないような気がした。優しい人なんて何処にも居ない。あらゆる人間が、助けられ救われる事ばかりを求めていて嫌になる。自分自身は誰も助けようとしないくせに、自分ばかりが助かろうとするなんて狡くて滑稽だという事も、いつか誰かが助けてくれると思い信じるのはただの虚妄だという事も、かなり前から皆分かっているはずだった。だから私は満員電車の中大変だよね、おつかれ様だよね、という無感情の気持ちでいたかったけれど、他人に触れてしまってからそれは完璧に失敗し、落ち込みも寂しさも虚妄も何もかも治らない散々な一日を過ごすしか今日を続ける意味が無くなった。



絡まるコードを丁寧に解くとipodtouchからイヤホンが外れてしまう。彼岸で散る青が車両全体に大きく流れる幻聴が何度も聞こえる幻覚を何度も何度も妄想した。


THE NOVEMBERS - 彼岸で散る青(PV)


もう何もかも全部どうでもいいような雰囲気が早朝の満員電車に噎せ返るほど溢れている。個人が少なからず持っている暗い気持ちが1つになる時に、不幸な事柄が予期せず起こってしまうのだと思う。それぞれ気持ちの大小はあるにせよ、孤立した負の感情同士は意図せず互いに入り込み合って、肥大した負の感情へと変化していく霊的な現象が存在すると信じている。肥大した負の感情は人間にコントロールされないまま誰かを殺してしまうような苦しい運命に成り果て、日常の結末として現れる様子があった。疲れた、大きな溜息を吐いた。イヤホンのコードが巻き付いた他人ではなく、また別の他人が怪訝な目でこちらを睨んでいた。彼の黒々しい髪と真っ青な学生服に海を思い、適度な寂しさがあった。代わりの事を考えていた。恐らくもう目の前の他人は代わりの誰かを見つけて私の溜息を忘れていた。

満員電車から降りて五反田を歩いた。奇妙なお店の羅列を眺めながら用事を済ませ、駅まで人と歩いた。別れ際改札口で「facebookかLINEやってる?」と聞かれ、本当に社会上この文脈が存在する事に驚いた。両方やってないと嘘を答えると「じゃあまたご縁があれば!」と言われた。とても現実味のある人だった。現実にちゃんと生きている人だなと感じて格好いいなと関心したけれど、別の世界で生きている偽物の存在だとも同時に思った。私にとって現実味と人間味は似つかない物であり、現実味がありすぎると現実に馴染むようにわざと演技をしているように感じる。人間味を欠いた最新AIみたいだった。嘘みたいな言葉と表情が現実味を持って迫る時、まるで自分が作られた世界や夢の中に生きているみたいだと錯覚してしまいそうになる。でもそういうのはなるべく早く辞めた方が良い。誰とも関わらなければ、現実味に触れなければ、病気にならずに済む。

コンビニに寄ったら現実味が売っていた。
興味の無い話を沢山聞いた。
非現実みたいな人と話がしたかったけれど頑張って我慢した。ずっと心臓が苦しくて何処かに座って休憩したかった。


彼岸で散る青聞いて夜道歩いてたら白い手袋をした警察官が横道から出てきた。湿った感じの人間で、彼が歩く度に夜の空気がぬるりとした。私達は目が合った。周りは誰もおらず只ひたすら静かに冷えていて、何度も轢かれそうになった信号機の無い十字路の上、私と警察官は距離を保った。十字路の奥から何かがこちら側に忍び込んできた。細長くて少し硬そうな荷物が青いビニールシートに包まれ担架に乗せられているらしく、妙に凹凸のある荷物は岩にしては柔らかで、しなやかな曲線と温かみを持っていた。担架を押して歩く3人の人間は何の表情も浮かべないまま、もの静かに担架を救急車に押し込んだ。儀式のような彼らのその移動には現実味がまるでなかった。


死体だった
いつもの道で無意識に死体とすれ違ったのがその日最後の出来事だった。あまりにも無造作に包まれたそれが、私が早朝に感じた殺意のような、乱暴な怠惰の押し付けで消された命だったらどうしよう。あるいは個々人が持つ小さな負の感情が1つの大きな感情になって、無意識に与えた運命だったらどうしよう?悪意に満ちた事件も、人を殺してしまう人間も、自死してしまう人間も、そういう悲しい出来事の全てが、周囲にいる他人達の悪意を掻き集めて作った巨大な悪意の力で、人間にコントロールされない運命を与えられているような気がしてならなくなった。そんなの嘘みたいな話でまるで現実味が全然無いのに。ぬるりとした夜の空気と彼らの無表情を思い返すと、死に対する馴れというものが案外奇妙な印象を人に与えるのだという事が分かる。嘘みたいな死体にも現実味が無かったのだ。私の中で「死に対する馴れ」が未だ「現実味の無いもの」として存在している事は1つの救いだと思った。早朝に会ったあの人が体中に巻き付けていた苦しくなる程現実的な現実味は、偽物みたいに不自然で救いがない。私は命あるものが、命無いもの以上にとても怖くて苦しい。でもどうせ苦しくても誰も助けてくれないのだから、君が優しくなって誰かを助ける必要も無い。安心して寝てしまえばいいのだと思う。私は大きな悪意の一部になりたくないし、誰かに運命を与える事も、誰かを殺す事も出来無い存在で居続けたい。
 

頭の中でもう一度青い凹凸とすれ違った瞬間、59個のコミュニケーションが消えた。こうやってまた自分だけが駄目になった。これから先の日常の事、考えていたら次第に現実味に飲み込まれて偽物になっていく。それが正しい生き方なのかもしれない。二月に行くTHENOVEMBERSのライブが楽しみで今にも死んでしまいそうになっている。

宴会


デニーズでサラリーマン達が宴会を開いていた。

デニーズで忘年会?!」私は多少驚きつつ、デニーズから撤退しようと決意した。彼らが楽しそうに社会性をばら撒きながら私の聖地を妨害しているような気がしつつも、忘年会の会場に〝デニーズ〟を選ぶ独特のセンスに惚れ惚れしたのは確かだった。それでも私はデニーズでゆっくりと読書をしていたので、忘年会の絶え間なく続く会話は聴くに耐えず、仕方なくお会計を済ませ、潔く部屋に戻った。とても眠たい、加えてつらい、いつになく孤独、殆ど何処にも居場所が無い。小学生みたいな事を帰りながら思う。いつか手帳にも書いたけれど、私が社会に影を創りながら物事を眺める様になったのは小学生の頃だった。視力が急激に悪くなって、視界が灰色にぼやけだした頃。文字がぼやけているにも関わらず、ひたすら漫画や本を読んでいた小学四年生の、憂鬱な小学校生活と目が悪すぎて見えない幾つもの表情と景色達。今更それらを正しく思い出すことすら出来ない。元々見えていないから、表情や景色は正しく記憶されていないのだ。コンタクトで視力を得た今も日常は、小学生の頃から何も変わっていない様な気がする。他人の表情にも景色にも興味がない。何に興味があるのか分からない。




Ringo Deathstar - " Imagine Hearts "



仕方なくデニーズでゆっくりと本を読み続けた。体と頭がぐったりしてきて、文字を眺める事以外何も出来なくなった。あらゆる不安を考えず、他人に言われた嫌な言葉もすっかり忘れられる、体がデニーズの一部に溶けていく、何処かに身を委ねてしまうような浄化行為、それを夜にするのが私にとっての安息で、過去への回帰であって、…デニーズでゆっくりと読書?

もしかしたら私は、サラリーマン達の側からは
「一人の女が孤独性をばら撒きながら僕達の聖地を妨害している」と思われていたかもしれない。でももういい、その夜は既に今変化したみたいだった。彼らの宴会は私の浄化行為を妨害したかもしれないけれど、私の浄化行為もまた彼らの宴会を妨害した一つの要因であった。その事実があるだけで、今ならあの宴会を許すよりも先に、彼らの宴会を妨害した事に反省できる。その代わり、突然ではありますが、私はこれからどう生きていけばいいのかを彼らに聴く事を許して欲しい。

結局、直截的に宴会を妨害する事になるのかもしれない。
「忘年会中突然すみません、これから私、どう生きていけば良いですか?」
彼らは私に言う「人に話しかける時にはまず始めにその耳に入れているイヤホンを取ろうね、話はそこからだよ。人の言葉が聞こえないように必死に守っている君だけの聴覚、そんなもの何の役にも立たないからね。」
私はその時「信じていたのに」と言うはずだったけれど、なんだか何もかもがどうでも良くなってしまい、彼らに「あなた方、一体何処の誰なんですか?」と言おうとした、瞬間、ウェイトレスがトレイを落とし、金属とガラスが大きな音を立てて床に散乱した。割れていた、3つのパフェが死体みたいにグロテスクな様態になったせいで、デニーズの夜は強制終了してしまった。ウェイトレスは怒った顔つきで口元に笑みを浮かべていた。私に向って音のない声を出しながら。

いつもの夜でもいつもの夜じゃない。いつもの夜じゃない様でありながら、結局の所はいつもの夜。〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉読まずにただ眺めている。毎晩少しずつ変化していると錯覚しないと気が狂うくらい執拗に繰り返される夜、信じていた自分だけの聴覚は最初から嘘で、聴こえてこなかった言葉、聴こうとしなかった言葉の音が本当は一番大切な事だったと気づいた夜、これ以上何かに気付く事を放棄をした。それは、他人から求められているものに付随している音を根こそぎ取り除き、求められているものなんて最初から無かったと見せかける不思議な細工が必要な放棄だった。昨日誰かに言われた「生きることを続けなさい」という文脈、そこから音を欠いてしまえば、ただの文字にしかならない。私はその文字をただ眺めて、ずっと意味が分からないままでいる。周囲にある言葉全てがただの文字になっていく。

ウェイトレスの言葉から音を欠き、根本的な無視をした。人の声を聴く事、普段ならやり遂げられるはずの事なのにどうしてもできなかった。精神の麻痺、文字に付いている声を受け入れる事がとても難しい。今夜はもういいと拒絶してしまう。今夜だけじゃなく、これから先も、全ての言葉から音を欠いて、最初から何も無かったことにしようと思う。もう私は全部無視したくて堪らないような気分で一杯で、生活が疎かになってきている。

〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉デニーズに居ないはずの私が未だ眺めている文字の羅列。アントンチェーホフが書いた小説の翻訳文、誰かが欠いた小説の音。言葉はただの文字として、音をたてず紙の上に浮かんでいる。ずっと意味が分からないままで、根本的な無視を続ける以外に「やるべき行為」が無い。ゆっくりデニーズで文字を眺めています。声のない言葉をただ眺めて、これは絵画ですよね、みたいな事を思って、何にも集中出来なくなっている。

やらなければならない文脈、それを発した他者の声を故意に欠いてしまう放棄。この放棄をデニーズの夜が強制終了した時、初めて自分で認識した。知らない内に、他者の気持ちに気付くのが怖くて声をただの文字にする事ばかり得意になっていたのだ。意味を欠いた言葉達/ただの文字達が切り離された声を取り戻そうと必死になればなるほど、何故だか過去を思い出す。切り離された言葉が向かう所には、手を振り返してくれない昔の友人達がいて、私が居たことを誰一人覚えていない過去が広がっていた。私が居たから創られた過去なのに、私の存在が最初から無かったみたいになった場所で、言葉達は意外にも前向きに幸せになる予感で浮き足立っている。過去への回帰こそが、意味を欠いた言葉達の浄化になり、いつかは意味を取り戻すのかもしれない。あるいは私の存在が、そこに戻っていくような、確かな思い出を意味に直す補正が現実では行われる。2005年の夏、1996年の冬、思えば既にさよならをした後の世界にしか、声に繋がる意味は存在しなかった。


声は文字に意味を与える、
言葉は過去から意味を受け継いでいく

正月



私が大学生だった頃、日常の大半は嫌いな人の嫌いな部分に思いを馳せていた。TVを見ながら「やっぱり嫌いだなぁ」と懐かしげに思ったり、お風呂に浸かりながら「実に嫌いだ」と若干憤りながら痛感したり、煙草を吸いながら「完全に嫌いですね」と生真面目な大学生風に開き直ったりした。性格が悪く、色々な物に対する不満や憎悪が多かった。誰のせいでもないのに、誰かのせいで、何かのせいで、私自身がどんどん醜く虚ろな人間へと堕ちていくような気がして怖かった。でも辞められなかった。嫌悪感に依存して、好感や愛情が出来なくなるまで。


長い月日を通して嫌悪感を持ちながら、同時に日常の大半は心臓が冷えていた。それは「…冷えている様な気がする」という思い違いの感覚ではなく、皮膚の上から触ると本当に冷たい温度をしていた。「おかしいな」と思い、慌ててドライヤーで心臓の辺りにあたたかい風を吹かせる。その行為は今でも続けていて、恥ずかしながら最近では遂に小さく気の抜けた声を出してしまうようになった。冷えた心臓付近に熱風をあてると、急激に、急速に、ものすごく直接的に癒しの波が訪れて、一瞬意識が体から抜けたみたいに何も考えず空白でいられるのだ。

しかしその空白も長くは続かず、癒しの波に乗って「相手に嫌悪感を見抜かれたり、不快感を与えたりしていなければ良いのだけど…」という気持ちが来る。自分の心の奥が周りの人間全員に漏洩しているのではないかと不安になる時間だ。そして間違いなくその漏洩についての心配も日常の大半はしていた。私の親戚は占いを生業にしているから、余計に怖かったのだ。生年月日や人相、手相で私の内側は勝手に占われている。「一生幸せになれない星に生まれている。そろそろ破滅する時期にあたり、その破滅を根本的に望んでいる面がある。嫌悪感や嫉妬心が強く、夢遊的な生活の中で多くの物事を見下し、そして見落とす傾向がある。」遠くにいても見透かされていると感じる目線、予期される私の願い、嘘だと気付かれている生き方、監視されている日常の歪み。お互い心の内側だけを探りあっている。隠していると思っていたはずのことも、大抵の人には全部ばれている。だからもう遠くの景色を見ていない。歪んだ日常の向こう側にある正しい日常は、思っている以上に遠くの方にあるのに、それを見ようとすると眩しくて目が痛むのだ。月さえ眩しい。


リクルートスーツを着た女子学生に、首の動きだけやたらに多い男が「人事やってると分かるんだけどねえ、内面ってふとした瞬間に出ちゃうよ。表情とか、目線とかに」と言っている景色が目の前に浮かんでいる。うるさいなあと心の中で思っていただけなのに、実際的に「うるさいなあ」と声に出しているような、日常の歪みを、私は誰にも秘密にする事が出来ない。遠くの景色を見ようとしても歪越しには中々上手く視点を合わせられず、目の前で歪んだ表情と目線が絡まる。眩しいのは見透かすような他人の絡まった目線だ。月はいつも監視している。正しいまま、一生歪む事がない。沢山の人が私を睨むみたいに見ていて、気分が悪くなって、目を閉じて、次に開けると涙が溢れてくる。いよいよ正しい日常から自分が離れつつある様な感じがし始めている。自分以外に向けた攻撃的な嫌悪を感じた時、私は当たり前の日常を辞めて、突飛な行為をしそうになる。突飛な行為をしたくなる。「うるさいなあ」では済まされない様な突飛なる日常の歪みに挑戦、飛び込みや包丁や薬、妄想から抜け出せないから日常はさらに歪んでいく。2017年は嫌悪感の漏洩が頻繁に起こり始めた年だった。残り三ヶ月程度の2017年も歪ませたままで終わると思う。酷くなっていくばかり、苦痛ばかり、一生幸せになれない星に生まれているなんて信じてない。


元旦までに、詩を何処かに送ってみたり出来たらいいなと思う。フリーペーパーに書いてそのへんにばら撒いておくのも良い。それは不気味な気持ちの漏洩で、嫌悪感の漏洩より全然あたたかいものだ。そのへんというのは、
誰も居ない公園のベンチの上
霊園沿いの道端
貝殻が落ちている空き地
スーパーのフードコート
市民プールのプールサイド
図書館で借りた本の間
TSUTAYAのCDラック
等の事で、神社の前では
あけましておめでとうございますと言い
その帰りに寄ったお店のアンケートBOXに
嫌悪の溢れたフリーペーパーを入れようと思っている

神社といえば、私は鳩森八幡神社がなんとなく好きで何度か訪れていたのだけど、何故好きなのか決定的な理由が分からなかった。でも、鳩森八幡神社が春樹村上が昔住んでいた家の隣にある神社だと知り、それが決定的な好きな理由だったのかもしれないと、あまりにも暇だったから思ったりした。どうやら私は過去の彼を真似て、鳩森八幡神社の庭でほころんだり、境内をぐるぐる散歩してみたり、真っ直ぐな木をただ眺めたりしていたみたいだった。理由の方が後から付いてきたのだ。私が意識していない所で、雨や身体はその決定的な理由を運んでいた。雨が降っていたから其処へ行きたくなった。身体が千駄ヶ谷駅で降りようとした。そういう風にして、大好きな作家が実在していた場所へ私は私が知らない内に既に四度も訪れていたのだ。「なんとなく」とか、そういう感情って本当は存在しないんじゃないか?なんとなく、の底には必ず理由がある。自身が未だ気づいていないことでも。

絵画

家族に監視されていて毎日苦しい


10教科中9教科がSで1つAだった。興味がある好きな事には没頭出来るというのがはっきりと分かる。反対に、興味が無い嫌いな物についてはもうどうする事も出来ない。どうする事も出来ないから、結局放置して無視するようになってしまう。そういう状況になった時は、それら無関心な物事についての記憶がすっかり頭から消えてしまったから仕方ないのだと自分に言い聞かせる。本当は興味のあること以上に無関心な物事は「不安」という形で頭の中の面積を何よりもずっと多く、もやもやとしながら占めているのに。記憶がすっかり頭から消えてしまったなんて全くの嘘だ。興味がある事について考えていると同時に、いつも頭の奥耳の中で無意識に不安を繰り返している。「興味が持てない物こそ自分を苦しめる」「興味が持てない物こそ自分の全てを壊してしまう」「興味が持てない物こそ人生を左右する」そういう不安がずっと消えないまま、じんわりと追い詰めてくるのだ。これからのことについて、生きていくのが難しいだろうという考えにまで、私を追い詰めるのが大好きな不安。興味の無い物事に、いかに頑張って取り組み関心を持つかということが大切だという気持ちに縛られる。興味が持てない物も興味を持っている物も同じくらいの気持ちで捉えられたら、私の周りから不安は消えてくれるはずだと信じている。

文化社会学については34郎やHASAMIgroupについて書いていた。好きな事の好きな部分を子細にただ淡々と書いている時が一番楽しいし不安も軽減する。こんな事を言っているけれど、好きな事について自分の感想や気持ちを流行に沿って感情的に書くのは好きではないし苦手だ。所謂ロキノン記事やナタリー記事のような、感情が大きく浮き出たような文章を私が書いても誰の心も震わせる事が出来ないのだ。私が書いていて楽しいのは、感情的なものよりも、事実として現れている目の前の物をそのとおりにそっくりそのまま多方面から淡々と述べた文章、誰でも書ける文章の事です。

絵画でいうと、それは模写になる。感情的な文章は想像画や創作画になるかもしれない。常にあらゆる物事について感情も感想も思い付く事が無くなってきたのも、あまりにも現実的な存在をそっくりそのまま文章にしてしまうのを楽しいと思ってしまったからだとしたら、自分の感情や気持ちの機能面を疑いたくなる。感情が隠れて一向に自分へ戻って来ていないことに気付いている。喉の奥にはっきりしないもやもやがずっとあるのに、それを正しい言葉で外側に出すのが出来ないままだ。不安。まるで場面緘黙症みたい。

喉の奥にあるはっきりしないもやもやを無理矢理言葉に変えた、書き手の不確かな感情や理解できるはずのない感想を読んで一体何になるのだろう?でも、誰もが知っている様な、見たら解るような物事を、あえて模写して言葉にするほうが最も意味の無い事なのだろう。

旅行から帰ると私は感情のある文章を書きたいと思った。あまりにも感情や気持ちの機能が衰えている事に気付いて、不安になったからだ。現実にあるものを言葉にするのではなくて、形になっていない創作や想像といったもやもやを言葉にする事。想像画や創作画。それらの材料になる想像の風景や表現をまずは文章で書いてみる。そのあとそれらの想像を絵にしたい。

今回お手本にしたのは、
カポーティの「遠い声 遠い部屋」
美しい想像の風景(実在するものもあるかもしれない)が、言葉を使ってふんだんに描かれていると感じる小説の一つ。その中から好きな風景や比喩表現を抜き出して、その文章の雰囲気を汲んだ文章を自分で書く。一行目がカポーティで二行目が私、時間が余る程沢山ある。


乳白色の星のある黄色いとろんとした目
―幻想の魚が泳ぐ海の青さが歪んだ目

黒い渚に砕ける泡のように青黒く花みずきの咲き乱れる
―プールに浮かぶ死体みたいに硬直する冬の猫が喉を鳴らす

黄金色に脈を打っていた蛍
―灰色の煙を吐き出す水仙

夢の中のふしぎな断片のように思えた
―身体から引き離された誰かの指先

夏はほんとに不愉快
―夏はほんとに愉快

雨の日に部屋をひたす真珠のような光
―夏の部屋、割られた香水瓶からの残香

あまりにもたびたび神様に裏切られた
―あまりにも深く自分に傷付けられた

静かな真珠のような雪雲
―泣いた花の様な古書

死んだ小鳥が好き
―死んだ物だけを愛す事が出来る

衰弱した心臓のような鼓動
―呼吸が遠のく患者の瞬き

透きとおったくらげの肉
―濁る事の無い少女の標本

無花果の葉が濡れた風まじりの伝言
―扉の向こうから聴こえた足音の強張る怒り

一切の暴力の硬直した
―大きな真白い弾力性を抱えた

御影石のような目
―水に映る月のような炎

石や板のひそかな溜め息
―暗闇に浮かぶ粒子の囁き

われわれは沈んでいる
―誰かの夢へ続く井戸に落ちている

秋やすべての季節、思い出
ノルウェイの森とギター、悲しみ

思い出は実在の陸地でまた海
―過去は根のない花であり、一切の種を持たない

いかにも楽しそうに怠惰
―怠惰でいることが少年の幸福

末長くいのちの緊張に耐えられる
―緊張は長い間呼吸を押さえつける

孤独は熱病のように夜にはびこる
―寂しさは星の無い夜空を汚染していく

われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ
―「われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ」

どんよりした奇妙に涼しい午後
―部屋全体がまるで僕の心みたいに、深く暗く異様に冷たく、奇妙に広い

仔猫の目のようなひどく青い空
―あの音楽の様にゆるやかな坂道

夢は翼のある復讐魚
―叶わない願望は毒のある睡眠薬

記憶が羽のように空気中に浮かんでいた
―身体のない鳥が翼だけで飛んでいた

苔の花の上に落ちた黒い星のよう
―頭の中にいる奇形の猫のよう

未来の全ては過去に存在する
―円術的な時間の中で過去だけが外れた所へ伸びていく

匂わしく花と開くいずれのこころ
―苦しげな花と呼吸を重ねた弱い心

愛こそは不変のもの
―不変のものは腐敗する事もない 始めから腐敗していない限り

眠りは死
コノテーションされる祈り

百合の花が泡を吹いている
―水辺の花が溺れた幻想を見ている

海のしぶきよりも細かく紡がれた指
―細い糸が幾重にも重なったように透き通る白い瞼に水滴が落ちる

心の挑戦的な表象
―身体の内側から棘が出て、心臓さえ貫いてしまう象徴

天国を、手の中にいもしない蝶のように握っている
―目に見えない蝶を未来の棺桶に忍ばせておく

朝は真っ白な未来を持った一枚の石版のよう
―「朝は、真っ白な未来を持った一枚の石版のよう」


世の中には美しい想像画に似た美しい言葉が沢山ある。翻訳されたカポーティの比喩表現や風景描写は、美しくて繊細で、なによりも上品で、涙が出るほど大好きだ。だからと言って生き続けたいとは思えない。死にたくないとは思うことも無い。弱い人間だから他人と何かしら繋がっていないと泣きそうになる。