ドッペル原画展

日記

 

全てを見えない物に委ねるという行為は、余りにも諦めという感情に近く自分から最も遠い所にあった。遠くなればなる程心地よくなってしまい、私は全てを手放して全てを嫌いな誰かに押し付ける事だって出来そうな気分にもなれた。

見えない物に身を委ねる時には、行く先の分からない不安や焦りに対して、気づかないふり、知らないふり、関係のないふり、興味のないふり、全てを信じる事、をしなくてはならない。何も見ない事とあまり多くを感じない事も忘れずに、全身全霊の力を込めて力を抜かなければならない。でもそれが出来なくなった。この感情が東洋的諦観に良く似ているということを知らされた事が1つの大きな原因の様に思う。掌で掬う事も出来ないような行為に対してはっきりと名前を付けていただいた為に、私はもう何かを諦観したり何かに身を任せたりする事が酷く恥ずかしく、億劫になってしまった。いつか私の目は、見えない物ばかりを見続けて他の物を視野に入れなくなるかもしれない。数々の現実、理想を諦観し、海にゆらりと浮かぶ。


海に浮かんだボトルレターが道筋も行く宛も無いまま浮かんでいるのを目にすれば、それは絶対に何処にも辿り着かないだろうと想像して笑いを堪える事に必死になるだろう。海の流れに任せ、揺らぐように浮かんでいても何処に流れ着くか分からない君の不安感に、私は酷く同情し、共感する。しかし、少し経てば私は私が見えない物を信じる姿を大いにひけらかし、その同情や共感を突き放す。 君は海の流れに、私は見えない物に身を委ねて何かを諦観してしまったけれど、君には何かを信じられる心の感情がない。


一番言いたかったのは、近頃自分の目が片方無い夢をよく見るという事だ。その夢は遥か遠い昔の話のようで、私はある国の王様として生きている。象形文字会議の際、片目盲目の王様のせいで、目という漢字が日になった夢だ。馬鹿げた夢、其処に何も無い。