ドッペル原画展

暴力

カーテンレールに吊るして乾燥させてた花束が、不意に足元に落下した音で目が覚めた。

頭から眠気が抜けていくほんの一瞬、足元に落ちた物は完璧に死体だと思っていた。夢との関係性でそういう寝惚け方をあえてしていた。私は、現実から聴こえるカラスの鳴き声を夢の中で聴き、夢の中でカラスをちゃんと殺した事に気付いていた。

朝起きてわざと寝惚けると気分が楽になる。突然引き戻される前に境界で彷徨う事は、直視できない朝に慣れるまでの優しい束の間だと思う。現実で鳴くカラスの鳴き声が聴こえなくなる束の間、現実では花束が落ち、寝惚けの少し手前でカラスは死んだ。乾いた薔薇は、カラスの死体と同じような質量と同じような存在感で私の足元に落ち、夢を覚ましてしまった。

全ては意味の無い事、誰にも関係の無い事

連休の大半は風邪薬と一緒にベッドの上で過ごした。連休という日々も、随分昔の事の様に思える。「昔の事」という箱の中には、連休は勿論の事、小学2年生の頃に受けた宮沢賢治についての授業も、二歳の頃にコーヒーを無理して飲んだ時の味も、昨日見た空の印象的な雲の動きも、全部一纏めに詰め込まれている。まるでコンビニで売ってる大量生産されたクッキーみたいに、どれも決して特別なんかじゃない。誰にでも与えられる過去、誰にでも感じる事の出来る感情だけが昔の事として残っている。


連休の中で印象に残っているのはカラスを殺した夢を見たその日だけだった。その他の日は声が出ないまま居るはずのない兄の事を考えていた、ずっと。


兄は仕事へ向かう途中初対面の男性に突然顔を殴られた。何度も何度も殴られて顔は血で真っ赤になり、目の上は紫に腫れ上がった。朝方だったのに目撃者は誰も居なくて、救急車を呼んだのも兄本人だった。

相手に向けて特別不快な行為をしていた訳では無いはずだと兄は笑いながら言った。朝、いつもの様にスーツを着て、ハイトーンの髪を整えて、薬を飲んで部屋を出た。それでも私の兄には、顔も名前も知らない赤の他人に突然殴られる様な隙と不本意な不快感があったのだ。
殴って、破壊したい
殴って、罵倒したい
殴って、否定したい
そういう様な事を他人に思わせる雰囲気がある。雰囲気というより、表情や立ち振舞から浮き出る人生だったのかもしれない。

兄は時々おかしくなった。部屋に入ろうとすると大きな声を出したり、私が兄の目を覗こうとすると突然泣き出して私を殴ろうとした。私は、不安定な兄の事が好きだった。好きだったけれど、だからと言って結婚したいとか手を繋ぎたいとかそんな事を思う訳は無かった。例え血が繋がっていないにしても。

〝血が繋がっていない〟という事を意識すると、兄と私の間にはお互いに知らない他人が一人立っているみたいな気分になった。兄と話す時は、まず始めにその他人に言葉を伝えないとならない。言葉を聞いた他人が兄に言葉を伝える事で、やっと私の言葉が兄に伝わるのだ。勿論、兄が私に対して言った言葉も、他人を介さなければ聞く事が出来ない。そういう構造の中に私と兄は居たから、私は兄の本当の言葉がいつも分からなかった。次第に、兄には隠し事がある様な気がして、話すのが怖くなった。どうか私と兄の間に存在する他人が消えて無くなります様にと願えば願う程、他人の数は増えていった。兄との間に何も無い距離で言葉を交わせるのは、私以外の人間全員であると言っても良い程、兄は私に対して頑なに本当の姿を見せようとしなかった。



だから、他人に殴られて入院してくれたのは好都合だった。兄の部屋へこっそり忍び込んで机の引き出しや箪笥の中を全部覗かなければならない使命感で胸が一杯になると、熱は更に酷くなって、喉が焼けるように熱くなった。



完結に言うと、兄の机の中には鉛筆や針で汚された私の写真が何枚も入っていた。どれも最近の私の写真で、顔の原型が無いくらいに傷付けられていた。それでも、机の奥にあったセーラー服を着た中学生の頃の写真だけは綺麗に残っていた。写真を見ると誰か分からない様な笑い方をしていた。変わってしまった私には価値が無いと言われている様だと思った。



意識が朦朧とする中で見た兄の部屋、過去の自分の笑顔、私の中の兄はとても遠い所へ消えていった。どこにも行かないで欲しいとどれだけ思っても、行ってしまう。知らない笑顔をもう一度だけ見ようとする。そうすると、皆、私の事を無関係な他者だと認識した。本当は最初から誰にも愛されていなかった。


兄は私の熱が下がった日に退院した。
メロンを持って帰ってきて嬉しかった。
いつものように生ハムを巻いて食べた。

「僕が殴られた時、相手に『あの不倫したバンドのボーカルみたいな髪型してるくせに、お前には社会に対する物怖じと生活に対する関心が無い!!』って言われた。『無関心もほどほどにしろ』って言われながら何度も蹴られた。」と兄が言うと、私は何故か笑顔になった。

私と兄の間に居る他人に向かって、
「はわー、私は社会に対する物怖じが無かった頃の女子高生に戻りたい」と言った。
その言葉は兄と私の間に居る1853576人の他人を介して本当の兄へと伝わる。

兄はメロンを口に含みながら、
「女子高生向いてないよ。もう君は元には絶対に戻れない」と言っていたらしい。生ハムとメロンの相性の悪さに対して怒っていた。

メロンと生ハムの相性の悪さが分からない。
こんなに相性の良い食べ物他には無いし、これがあれば社会に対して物怖じする事もそれ程長くは続かない様な気さえする。

生ハムメロンを食べ続けたら、私は道端で突然殴られたりしてしまうだろうか?もしくは誰かの事を、突然殴ってしまう出来事が起こったりするのだろうか?
程よい脱力感で、全く力のない腕で、
兄をもう一度殴ってあげたい