ドッペル原画展

宿痾


飛行機に乗っているシーンから始まり、それから約800ページ分、主人公が過去を〝回想〟し続けて終わっていく物語について。

私はその物語を〈既に死につつ有る男の走馬灯〉として読むことにした。もちろん初めて読んだ時はそんな風に捻れた読み方をしなかった。それでも「これは最初から最後までずっと回想だ」という事は初めて読み終えた時から気付いていた。
一体いつになったら飛行機は離陸し、一体いつになったら男は回想を中止し、一体、いつになったら、現実に戻ってくるのだろうか?という疑問。その疑問は少なくとも私にとって、物語をより一層魅力的な物にしている。物語を読み終わってから一年が経っても、回想の物語は日常のふとした時に私をはっとさせるように。物語が物語上の現実に中々戻ってこないという出来事には、不思議で内包的な幻想が隠されているからだ。


本来非現実であるはずの物語の中に〈現実に戻ってこない〉という場面を読む事で、非現実の中に現実が内包されているというイメージが広がっていく。更にそのイメージの中で過去を〈回想〉する時、物語に幻想性が生まれるような気がした。
不気味な顔をしたマトリョーシカ。一番大きな殻である非現実が現実を覆い、非現実と現実は一丸となって回想を隠している。隠された回想を見つけたとき、非現実や現実の全てが完全に幻想的な物になってしまう。同時に、不思議で内包的な幻想という物は、内包された現実を放棄し、その向こう側にある過去を回想した時に浮かび上がってくる物なのかもしれない。回想は目の前に広がっている現実を放棄する事だった。それはものすごく「不確かな事」で、無責任で、逃げ場のない物なのだと思う。

存在そのものが不気味な幻想になってしまう/内包された現実を見過ごして過去に思いを馳せる不確かな

矛盾のような、何が現実なのか分からなくなるような、絡まった時系列がとても好きだ。不確かな出来事は、急にぱったりと姿を消す。背中を押されて電車に轢かれた人は、日常にぱったりと姿を表す。嘘みたいに現実感のある回想と、嘘みたいな現実が、ばらばらになりながら生活に紛れ込んでいる。私は夏の間ずっと、生活に紛れた不確かな部分・現実感のある回想へと主人公を連れて行く幻想性に、死や夢を連想したりしている。そして、こんな事しか考えられない自分に自信を失くす。自信を失くすくらいに意味のない事を考えないかぎり、急かされる事を止められない。まるで病気なのかと思う。生まれた時からずっと纏わりつく病気。


本当に、
毎日急かされていて毎日頭痛が治らない
やるべき事を義務みたいにこなす
子供みたいな事を考えながら毎日
急いで辿り着いた先に、
待っている楽しみも誰かとの約束も
やりたい事も何もないのに

何でこんなに急いでるんだろう?
何にこんなに急かされているのだろう?
もう、死季が近いのか?!

普通に、どう考えても、
時間を忘れてゆっくりしたいし、
墜落する飛行機に乗って回想したい。私が乗っている飛行機は堕落している途中、もしくは既に堕落している。それは現実上にある事なのか回想上にある事なのか分からない。堕落している事に私自身が気づいていなければ、それは現実でも回想でもなく、ただの偽物になる。物語の上では。



堕落し続ける中、主人公は一向に回想を止めない。最後の「一体どこにいるのだろう」という言葉は〈回想〉の中から出てきた〈現実〉に対する言葉だ。

主人公が、回想の中に感じていたものが物語上の現実でも同じ質量をもって存在している。過去が現実と繋がっているのだということが紙に印刷された文字から指先を通じて伝わる一時を過ごすことが出来ると、私はとても嬉しくなる。嬉しすぎて、息がつまる。感動して、急かされている事を忘れてしまう。そして感動は、直ぐに収まって急かされているのを思い出す。

急かされているのを思い出すから感動は直ぐに覚めてしまう。

急がないと殺されるんじゃないかと思う事で忙しい、何か一つ欠けたらばらばらに壊れてしまいそうだ。

私は墜落する飛行機の中で、ばらばらに解けた嘘みたいに現実感のある回想と嘘みたいな現実を、もう一度一つにしてあげないといけない。空に浮かび、ノルウェイの森が流れる空間はきっといつまでも不確かなものとして、私が壊れるのを引き止めてくれる。ただ、その空間に辿り着くまでの期間、悲しい出来事が多い。



――

私は最近ブログを書いていて良かったと思うことがありました。自分が思っている事や考えている事を文字に表しておくことを続けていきたい。読んでくれている方が居るかもしれないので。

なぞなぞの言葉は「泡」です。
さようなら。