ドッペル原画展

国境

 

 感想を残しておこうと思っていたのに、思い始めてから約一ヶ月が経ってしまった。何故今こうして突発的に感想を書き始めたのかというと、明日から私は五日間旅に出るからだ。恐らく過酷で、後悔の多い旅になる。そして、旅の前後で周りも自分も全く異なるものになってしまうのではないかと思っている。全く異なるものになる前に、今の自分で感想を書いておきたいと思ったから、旅の準備もせずこうして書き始めている。

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 

今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう―たぶん。「ジャズを流す上品なバー」を経営する、絵に描いたように幸せな僕の前にかつて好きだった女性が現われて―。日常に潜む不安をみずみずしく描く話題作。

  

 私があらすじを簡潔に言うならば、

「主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う話」という風になる。

作者の他小説によく見られる”誰かの失踪”や”死”という事象が、この小説内にも存在はしているが、他小説ほど印象に残らない。失踪や死という事象以上に「幻想」が小説内で大きな存在感を残しているのだ。幻想とは、根拠のない空想・とりとめのない想像の事だ。この小説の場合、主人公と過去の女性との間には何年も月日が流れているため、過去を思い出すよう努めても、いくらかの「空想・想像」が必要になってくる。正しい過去を感情として思い出す事が出来ないから、過去の断片を繋ぎ合せ、おそらく・多分を多用しながら自在に過去を作り出す。主人公が過去の女性と現在の女性との間で彷徨う過程には、どうしても過去に対する想像・空想を止める事、過去を自在に作り出す事が出来なくなってしまう主人公自身の少年っぽさと脆さ、過去へ引きづられるようにして現実から遠ざけられていく心の動きが描かれているように感じた。そしてそれらがとても面白かった。

 

 過去の女性には、過去の時点で多くの思いが重ねられていた。当時の思いを、当時の自分でない者がもう一度思い出すとすれば、それは単なる想像・空想でしかない可能性がある。つまり、作品のあらすじに書いてある”かつて好きだった女性”は”今の僕”にとって、温かく幸せなただの幻想として現れてしまうのだ。そのような類の幻想は、思い出したくもない卑屈な過去によって排除される。自分の本質が現れているような卑屈でどうしようもない過去は、「どこにも行けない僕」を「今の僕」へと追いやっていくのだ。みんな、そうやって遠くの過去を捨てて此処までやってきているのだろうと何となく思う。まるで夢から目を覚ますみたいに、いつまでも寝ていられないのだと大きく伸びをするのだ。

「幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。ーたぶん自分の意思で殺して、捨ててしまったのね。ーときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って言うの。」

  この言葉は「僕」の妻の言葉だが、この言葉を読んで私は胸が苦しくなる。現実に留まるのは、簡単な事じゃない。しかし、過去をいつまでも追いかけるのは自然の流れに反している。そしてなによりも、追いかけている間には周りも自分自身も変化している。十年前にある女性が好きだったのは、今はもう持っていない「十年前の自分の感受性」があったからなのだ。そういう当たり前の事が、普通に生活していると分からなくなる。分からなくなって、過去へ吸い寄せられたり、現実が全く輝きのないものに見えたりする。それは、小説に出てきたヒステリア・シベリアナという病気に似ている。太陽が東の地平線から上がって西の地平線を沈んでいく毎日の繰り返しが、ただ一定の繰り返しが、誰かを破壊していくヒステリア・シベリアナ。

 

  私は「過去」「幻想」「現在」という言葉が大好きだ。本当に楽しくこの小説を読み、勝手に考える事が出来た。この小説を読んで分かったのは、変化した事に気付かないまま過去の事を考えると、すべてはまるで幻想になってしまうという事だ。一方で、ずっと変化する事なく思い続けている事に対して自分は敬意を払うべきだろうとも思う。物事を考えるとき、その物事を考え思い出す用の心がそれぞれ必要なのかもしれない。全てに対して同じ心で接する事が難しくなっているのだ。絶対に許せない高校時代の話は、絶対に許せなかった高校時代の心で考えた方が良い。違う部分の心で考えると、その過去の事柄はもう私にとって「完全にどうでも良い事」なのだ。だけど、月日が流れれば心の場所さえ忘れてしまうのだろう。感情も過去も、もう二度と再現する事が出来ない。五日間の旅から帰ってきた後に、今こうして書いている感想を全くそのまま「想像し直す」事も、もちろん不可能だと思う。当たり前の事だけど、それを忘れてしまうといつまでも過去に縛られたままのような気がするのだ。

 

 

 

(どうでもいい事)

「僕」と「僕がかつて好きだった人」は国境の南から太陽の西へと向かう所まできていた。しかし、太陽が昇り沈んでいくという「現実的な事」がそれを思いとどまらせたと解釈する。「国境の南」は僕と僕のかつて好きだった人が昔のままで存在する過去、「太陽の西」は過去に対する想像が現実に現れてしまう幻想、「国境の南、太陽の西」はその上を休む事なく自動的に過ぎてゆく、回転していく”とても現実的なこと”であると考えている。