ドッペル原画展

正月



私が大学生だった頃、日常の大半は嫌いな人の嫌いな部分に思いを馳せていた。TVを見ながら「やっぱり嫌いだなぁ」と懐かしげに思ったり、お風呂に浸かりながら「実に嫌いだ」と若干憤りながら痛感したり、煙草を吸いながら「完全に嫌いですね」と生真面目な大学生風に開き直ったりした。性格が悪く、色々な物に対する不満や憎悪が多かった。誰のせいでもないのに、誰かのせいで、何かのせいで、私自身がどんどん醜く虚ろな人間へと堕ちていくような気がして怖かった。でも辞められなかった。嫌悪感に依存して、好感や愛情が出来なくなるまで。


長い月日を通して嫌悪感を持ちながら、同時に日常の大半は心臓が冷えていた。それは「…冷えている様な気がする」という思い違いの感覚ではなく、皮膚の上から触ると本当に冷たい温度をしていた。「おかしいな」と思い、慌ててドライヤーで心臓の辺りにあたたかい風を吹かせる。その行為は今でも続けていて、恥ずかしながら最近では遂に小さく気の抜けた声を出してしまうようになった。冷えた心臓付近に熱風をあてると、急激に、急速に、ものすごく直接的に癒しの波が訪れて、一瞬意識が体から抜けたみたいに何も考えず空白でいられるのだ。

しかしその空白も長くは続かず、癒しの波に乗って「相手に嫌悪感を見抜かれたり、不快感を与えたりしていなければ良いのだけど…」という気持ちが来る。自分の心の奥が周りの人間全員に漏洩しているのではないかと不安になる時間だ。そして間違いなくその漏洩についての心配も日常の大半はしていた。私の親戚は占いを生業にしているから、余計に怖かったのだ。生年月日や人相、手相で私の内側は勝手に占われている。「一生幸せになれない星に生まれている。そろそろ破滅する時期にあたり、その破滅を根本的に望んでいる面がある。嫌悪感や嫉妬心が強く、夢遊的な生活の中で多くの物事を見下し、そして見落とす傾向がある。」遠くにいても見透かされていると感じる目線、予期される私の願い、嘘だと気付かれている生き方、監視されている日常の歪み。お互い心の内側だけを探りあっている。隠していると思っていたはずのことも、大抵の人には全部ばれている。だからもう遠くの景色を見ていない。歪んだ日常の向こう側にある正しい日常は、思っている以上に遠くの方にあるのに、それを見ようとすると眩しくて目が痛むのだ。月さえ眩しい。


リクルートスーツを着た女子学生に、首の動きだけやたらに多い男が「人事やってると分かるんだけどねえ、内面ってふとした瞬間に出ちゃうよ。表情とか、目線とかに」と言っている景色が目の前に浮かんでいる。うるさいなあと心の中で思っていただけなのに、実際的に「うるさいなあ」と声に出しているような、日常の歪みを、私は誰にも秘密にする事が出来ない。遠くの景色を見ようとしても歪越しには中々上手く視点を合わせられず、目の前で歪んだ表情と目線が絡まる。眩しいのは見透かすような他人の絡まった目線だ。月はいつも監視している。正しいまま、一生歪む事がない。沢山の人が私を睨むみたいに見ていて、気分が悪くなって、目を閉じて、次に開けると涙が溢れてくる。いよいよ正しい日常から自分が離れつつある様な感じがし始めている。自分以外に向けた攻撃的な嫌悪を感じた時、私は当たり前の日常を辞めて、突飛な行為をしそうになる。突飛な行為をしたくなる。「うるさいなあ」では済まされない様な突飛なる日常の歪みに挑戦、飛び込みや包丁や薬、妄想から抜け出せないから日常はさらに歪んでいく。2017年は嫌悪感の漏洩が頻繁に起こり始めた年だった。残り三ヶ月程度の2017年も歪ませたままで終わると思う。酷くなっていくばかり、苦痛ばかり、一生幸せになれない星に生まれているなんて信じてない。


元旦までに、詩を何処かに送ってみたり出来たらいいなと思う。フリーペーパーに書いてそのへんにばら撒いておくのも良い。それは不気味な気持ちの漏洩で、嫌悪感の漏洩より全然あたたかいものだ。そのへんというのは、
誰も居ない公園のベンチの上
霊園沿いの道端
貝殻が落ちている空き地
スーパーのフードコート
市民プールのプールサイド
図書館で借りた本の間
TSUTAYAのCDラック
等の事で、神社の前では
あけましておめでとうございますと言い
その帰りに寄ったお店のアンケートBOXに
嫌悪の溢れたフリーペーパーを入れようと思っている

神社といえば、私は鳩森八幡神社がなんとなく好きで何度か訪れていたのだけど、何故好きなのか決定的な理由が分からなかった。でも、鳩森八幡神社が春樹村上が昔住んでいた家の隣にある神社だと知り、それが決定的な好きな理由だったのかもしれないと、あまりにも暇だったから思ったりした。どうやら私は過去の彼を真似て、鳩森八幡神社の庭でほころんだり、境内をぐるぐる散歩してみたり、真っ直ぐな木をただ眺めたりしていたみたいだった。理由の方が後から付いてきたのだ。私が意識していない所で、雨や身体はその決定的な理由を運んでいた。雨が降っていたから其処へ行きたくなった。身体が千駄ヶ谷駅で降りようとした。そういう風にして、大好きな作家が実在していた場所へ私は私が知らない内に既に四度も訪れていたのだ。「なんとなく」とか、そういう感情って本当は存在しないんじゃないか?なんとなく、の底には必ず理由がある。自身が未だ気づいていないことでも。