ドッペル原画展

宴会


デニーズでサラリーマン達が宴会を開いていた。

デニーズで忘年会?!」私は多少驚きつつ、デニーズから撤退しようと決意した。彼らが楽しそうに社会性をばら撒きながら私の聖地を妨害しているような気がしつつも、忘年会の会場に〝デニーズ〟を選ぶ独特のセンスに惚れ惚れしたのは確かだった。それでも私はデニーズでゆっくりと読書をしていたので、忘年会の絶え間なく続く会話は聴くに耐えず、仕方なくお会計を済ませ、潔く部屋に戻った。とても眠たい、加えてつらい、いつになく孤独、殆ど何処にも居場所が無い。小学生みたいな事を帰りながら思う。いつか手帳にも書いたけれど、私が社会に影を創りながら物事を眺める様になったのは小学生の頃だった。視力が急激に悪くなって、視界が灰色にぼやけだした頃。文字がぼやけているにも関わらず、ひたすら漫画や本を読んでいた小学四年生の、憂鬱な小学校生活と目が悪すぎて見えない幾つもの表情と景色達。今更それらを正しく思い出すことすら出来ない。元々見えていないから、表情や景色は正しく記憶されていないのだ。コンタクトで視力を得た今も日常は、小学生の頃から何も変わっていない様な気がする。他人の表情にも景色にも興味がない。何に興味があるのか分からない。




Ringo Deathstar - " Imagine Hearts "



仕方なくデニーズでゆっくりと本を読み続けた。体と頭がぐったりしてきて、文字を眺める事以外何も出来なくなった。あらゆる不安を考えず、他人に言われた嫌な言葉もすっかり忘れられる、体がデニーズの一部に溶けていく、何処かに身を委ねてしまうような浄化行為、それを夜にするのが私にとっての安息で、過去への回帰であって、…デニーズでゆっくりと読書?

もしかしたら私は、サラリーマン達の側からは
「一人の女が孤独性をばら撒きながら僕達の聖地を妨害している」と思われていたかもしれない。でももういい、その夜は既に今変化したみたいだった。彼らの宴会は私の浄化行為を妨害したかもしれないけれど、私の浄化行為もまた彼らの宴会を妨害した一つの要因であった。その事実があるだけで、今ならあの宴会を許すよりも先に、彼らの宴会を妨害した事に反省できる。その代わり、突然ではありますが、私はこれからどう生きていけばいいのかを彼らに聴く事を許して欲しい。

結局、直截的に宴会を妨害する事になるのかもしれない。
「忘年会中突然すみません、これから私、どう生きていけば良いですか?」
彼らは私に言う「人に話しかける時にはまず始めにその耳に入れているイヤホンを取ろうね、話はそこからだよ。人の言葉が聞こえないように必死に守っている君だけの聴覚、そんなもの何の役にも立たないからね。」
私はその時「信じていたのに」と言うはずだったけれど、なんだか何もかもがどうでも良くなってしまい、彼らに「あなた方、一体何処の誰なんですか?」と言おうとした、瞬間、ウェイトレスがトレイを落とし、金属とガラスが大きな音を立てて床に散乱した。割れていた、3つのパフェが死体みたいにグロテスクな様態になったせいで、デニーズの夜は強制終了してしまった。ウェイトレスは怒った顔つきで口元に笑みを浮かべていた。私に向って音のない声を出しながら。

いつもの夜でもいつもの夜じゃない。いつもの夜じゃない様でありながら、結局の所はいつもの夜。〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉読まずにただ眺めている。毎晩少しずつ変化していると錯覚しないと気が狂うくらい執拗に繰り返される夜、信じていた自分だけの聴覚は最初から嘘で、聴こえてこなかった言葉、聴こうとしなかった言葉の音が本当は一番大切な事だったと気づいた夜、これ以上何かに気付く事を放棄をした。それは、他人から求められているものに付随している音を根こそぎ取り除き、求められているものなんて最初から無かったと見せかける不思議な細工が必要な放棄だった。昨日誰かに言われた「生きることを続けなさい」という文脈、そこから音を欠いてしまえば、ただの文字にしかならない。私はその文字をただ眺めて、ずっと意味が分からないままでいる。周囲にある言葉全てがただの文字になっていく。

ウェイトレスの言葉から音を欠き、根本的な無視をした。人の声を聴く事、普段ならやり遂げられるはずの事なのにどうしてもできなかった。精神の麻痺、文字に付いている声を受け入れる事がとても難しい。今夜はもういいと拒絶してしまう。今夜だけじゃなく、これから先も、全ての言葉から音を欠いて、最初から何も無かったことにしようと思う。もう私は全部無視したくて堪らないような気分で一杯で、生活が疎かになってきている。

〈無関心とは精神の麻痺であり、死の先取りである 〉デニーズに居ないはずの私が未だ眺めている文字の羅列。アントンチェーホフが書いた小説の翻訳文、誰かが欠いた小説の音。言葉はただの文字として、音をたてず紙の上に浮かんでいる。ずっと意味が分からないままで、根本的な無視を続ける以外に「やるべき行為」が無い。ゆっくりデニーズで文字を眺めています。声のない言葉をただ眺めて、これは絵画ですよね、みたいな事を思って、何にも集中出来なくなっている。

やらなければならない文脈、それを発した他者の声を故意に欠いてしまう放棄。この放棄をデニーズの夜が強制終了した時、初めて自分で認識した。知らない内に、他者の気持ちに気付くのが怖くて声をただの文字にする事ばかり得意になっていたのだ。意味を欠いた言葉達/ただの文字達が切り離された声を取り戻そうと必死になればなるほど、何故だか過去を思い出す。切り離された言葉が向かう所には、手を振り返してくれない昔の友人達がいて、私が居たことを誰一人覚えていない過去が広がっていた。私が居たから創られた過去なのに、私の存在が最初から無かったみたいになった場所で、言葉達は意外にも前向きに幸せになる予感で浮き足立っている。過去への回帰こそが、意味を欠いた言葉達の浄化になり、いつかは意味を取り戻すのかもしれない。あるいは私の存在が、そこに戻っていくような、確かな思い出を意味に直す補正が現実では行われる。2005年の夏、1996年の冬、思えば既にさよならをした後の世界にしか、声に繋がる意味は存在しなかった。


声は文字に意味を与える、
言葉は過去から意味を受け継いでいく