ドッペル原画展

早朝



イヤホンのコードが知らない人の鞄のファスナーの隙間に入り込んで取れなくなった。私はTHENOVEMBERSの彼岸で散る青というとても美しい曲を聴いている最中で、このままイヤホンの導線が切れて音が聴こえなくなったらどうしようと泣きそうになっていた。この満員電車の中耳栓をせずにいたら多少嫌な気分になってしまう。勢いよく引っ張られるコードはファスナーの金具の隙間にぴったりと、しっかりと、意図的に入り込んでいて、簡単にもう他人と私の耳栓を切り離すのは無理に近い事が分かり少し混乱した。まるで掏摸をするみたいに内密にイヤホンを取り返すのは不可能に近く、コードが絡まる目の前の他人と何らかのコミュニケーションを行う必要が絶対的にあった。具合はいつも以上に悪くなり、社会は本当に意地悪だった。4年程前からずっと具合が悪い様な気もする。病院に行ったほうがいいのかな。誰かと一緒に行きたい。診察後、具合が悪いなんて本当にただの甘えで勘違いだったねと笑いながら冬の海に行きたい。帰りにイオンに入っている大きめの本屋で誕生日占いを立ち読みして帰る。夜ご飯は普通に考えれば鍋だと思う。それか湯豆腐。


仕方なく知らない人の肩に手を置いてみた。知らない人がわざと時間を遅らせているみたいに、じっくりと時間をかけ振り返ったから「すみません。イヤホン取らせてもらっても良いですか」と無意識に早口で言い、取らせてもらった。殺意が湧いた。こんな早朝、こんな満員電車の中何故こんな状況に居なければならないのか、どうして私はいつも不安なのか、分からなくて何も分からなくて泣いていた。早朝の山手線は窒息死しそうな程混んでいて誰も私が泣いている事に気付いていない、いくら待っても助けは訪れない。誰も助けてくれないというより寧ろ助けたい側の人間が日常に1人も存在していないような気がした。優しい人なんて何処にも居ない。あらゆる人間が、助けられ救われる事ばかりを求めていて嫌になる。自分自身は誰も助けようとしないくせに、自分ばかりが助かろうとするなんて狡くて滑稽だという事も、いつか誰かが助けてくれると思い信じるのはただの虚妄だという事も、かなり前から皆分かっているはずだった。だから私は満員電車の中大変だよね、おつかれ様だよね、という無感情の気持ちでいたかったけれど、他人に触れてしまってからそれは完璧に失敗し、落ち込みも寂しさも虚妄も何もかも治らない散々な一日を過ごすしか今日を続ける意味が無くなった。



絡まるコードを丁寧に解くとipodtouchからイヤホンが外れてしまう。彼岸で散る青が車両全体に大きく流れる幻聴が何度も聞こえる幻覚を何度も何度も妄想した。


THE NOVEMBERS - 彼岸で散る青(PV)


もう何もかも全部どうでもいいような雰囲気が早朝の満員電車に噎せ返るほど溢れている。個人が少なからず持っている暗い気持ちが1つになる時に、不幸な事柄が予期せず起こってしまうのだと思う。それぞれ気持ちの大小はあるにせよ、孤立した負の感情同士は意図せず互いに入り込み合って、肥大した負の感情へと変化していく霊的な現象が存在すると信じている。肥大した負の感情は人間にコントロールされないまま誰かを殺してしまうような苦しい運命に成り果て、日常の結末として現れる様子があった。疲れた、大きな溜息を吐いた。イヤホンのコードが巻き付いた他人ではなく、また別の他人が怪訝な目でこちらを睨んでいた。彼の黒々しい髪と真っ青な学生服に海を思い、適度な寂しさがあった。代わりの事を考えていた。恐らくもう目の前の他人は代わりの誰かを見つけて私の溜息を忘れていた。

満員電車から降りて五反田を歩いた。奇妙なお店の羅列を眺めながら用事を済ませ、駅まで人と歩いた。別れ際改札口で「facebookかLINEやってる?」と聞かれ、本当に社会上この文脈が存在する事に驚いた。両方やってないと嘘を答えると「じゃあまたご縁があれば!」と言われた。とても現実味のある人だった。現実にちゃんと生きている人だなと感じて格好いいなと関心したけれど、別の世界で生きている偽物の存在だとも同時に思った。私にとって現実味と人間味は似つかない物であり、現実味がありすぎると現実に馴染むようにわざと演技をしているように感じる。人間味を欠いた最新AIみたいだった。嘘みたいな言葉と表情が現実味を持って迫る時、まるで自分が作られた世界や夢の中に生きているみたいだと錯覚してしまいそうになる。でもそういうのはなるべく早く辞めた方が良い。誰とも関わらなければ、現実味に触れなければ、病気にならずに済む。

コンビニに寄ったら現実味が売っていた。
興味の無い話を沢山聞いた。
非現実みたいな人と話がしたかったけれど頑張って我慢した。ずっと心臓が苦しくて何処かに座って休憩したかった。


彼岸で散る青聞いて夜道歩いてたら白い手袋をした警察官が横道から出てきた。湿った感じの人間で、彼が歩く度に夜の空気がぬるりとした。私達は目が合った。周りは誰もおらず只ひたすら静かに冷えていて、何度も轢かれそうになった信号機の無い十字路の上、私と警察官は距離を保った。十字路の奥から何かがこちら側に忍び込んできた。細長くて少し硬そうな荷物が青いビニールシートに包まれ担架に乗せられているらしく、妙に凹凸のある荷物は岩にしては柔らかで、しなやかな曲線と温かみを持っていた。担架を押して歩く3人の人間は何の表情も浮かべないまま、もの静かに担架を救急車に押し込んだ。儀式のような彼らのその移動には現実味がまるでなかった。


死体だった
いつもの道で無意識に死体とすれ違ったのがその日最後の出来事だった。あまりにも無造作に包まれたそれが、私が早朝に感じた殺意のような、乱暴な怠惰の押し付けで消された命だったらどうしよう。あるいは個々人が持つ小さな負の感情が1つの大きな感情になって、無意識に与えた運命だったらどうしよう?悪意に満ちた事件も、人を殺してしまう人間も、自死してしまう人間も、そういう悲しい出来事の全てが、周囲にいる他人達の悪意を掻き集めて作った巨大な悪意の力で、人間にコントロールされない運命を与えられているような気がしてならなくなった。そんなの嘘みたいな話でまるで現実味が全然無いのに。ぬるりとした夜の空気と彼らの無表情を思い返すと、死に対する馴れというものが案外奇妙な印象を人に与えるのだという事が分かる。嘘みたいな死体にも現実味が無かったのだ。私の中で「死に対する馴れ」が未だ「現実味の無いもの」として存在している事は1つの救いだと思った。早朝に会ったあの人が体中に巻き付けていた苦しくなる程現実的な現実味は、偽物みたいに不自然で救いがない。私は命あるものが、命無いもの以上にとても怖くて苦しい。でもどうせ苦しくても誰も助けてくれないのだから、君が優しくなって誰かを助ける必要も無い。安心して寝てしまえばいいのだと思う。私は大きな悪意の一部になりたくないし、誰かに運命を与える事も、誰かを殺す事も出来無い存在で居続けたい。
 

頭の中でもう一度青い凹凸とすれ違った瞬間、59個のコミュニケーションが消えた。こうやってまた自分だけが駄目になった。これから先の日常の事、考えていたら次第に現実味に飲み込まれて偽物になっていく。それが正しい生き方なのかもしれない。二月に行くTHENOVEMBERSのライブが楽しみで今にも死んでしまいそうになっている。