ドッペル原画展

破壊

 

 全てを"ぶち壊す"といった出来事が日常には多々あり、壊す対象が何であろうとも、その出来事は強力な破壊力を持っている。壊された側の空間に居た自分や、そこに含まれていた時間は二度と元には戻る事はない。その時の状態がそっくりそのまま現れ、再考される機会すら永遠に訪れないだろう。

だから、全てを"ぶち壊す"というのは、圧倒的な罪であり、其処にあったはずの空間そのものを奪う出来事なのだ。それでもなお罪が裁かれないのは、破壊する罪は自分が自分に対して犯す事が大半であり、自ら望んで罪を犯しているような気がするからである。望んだ罪、望んだ破壊であるならば、当然裁くにも裁ききれない。

妄想を壊す更なる妄想、現実を壊す更なる現実、過去を壊すそれ以上の過去、それらが積み重なり何度も傷付いた妄想や現実や過去は私が破壊をした罪と共に体の中に永遠に残っている。つまり、これからの生活は破壊され尽くされた様々な時系列の層が、何度か作り替えられ、そしてまた同じ様に破壊を繰り返すだけなのである。それに加え、むしろ妄想は現実に壊されるし、過去は現在に、そして現在は過去に、未来は現在に破壊されていくのが大抵のありふれた生活であろう。

妄想は現実に壊されず、過去は現在に壊されないような仕組みがシステムとしてあったらよかったのだが、そうもいかず、今日も妄想は現実に"ぶち壊され"、現在は過去に"ぶち壊され"ている。私が一番苦手なぶち壊しが「快感」である。ゆるやかにリラックスした現在の中に突然快感が現れたら、全てがどうでもよくなってしまう。妄想の中に感触や温度や痺れのある現実の快感が生まれたら、あるいは現実のなかに何の感覚も持たない快感が生まれたら、そこにある空間は乱れ壊れていくのだ。考えてたことが流され、思考が快感だけになる時、何度も壊れた現在の層が、妄想に破壊される感覚が襲ってくる。

 

 私には夢見る時に思い出される"ぶち壊し"がある。それも、ただの破壊ではなく、一種の快感を孕んでいる可能性のあるぶち壊しだった。それは小さな暗闇の中から少しずつ始まる映像であり、壊される時は、最後に見えた光景が一枚の写真のように堅く守られている。

私と彼の間には腕で抱き抱えられる程度の小さな暗闇がある。寧ろその小さな暗闇しか存在せず、私達の周りには何も居ないと思える程だった。暗い山に囲まれた道を登りきり、コテージの前に集まった小学生達の中に私達は属していた。小学生達は課外学習の最中であり、キャンプファイヤーの準備の為、規則正しく並んでいる。私達もその一員の筈だったのに、その時には私と彼は少しの暗闇をお互いに抱えあい、それを透かしながら言葉を交わそうとする雰囲気があった。

小さな暗闇が波打つ様にうねった時、彼が私に「なんだか足が痛くて、どうしよう」と耳打ちをした。私は一応心配しているふりをして「大丈夫?怪我?」と聞いた。彼は原因は分からないけれどとにかく痛いんだ、ちょっと足を見てくれない?でも此処だと周りに人が居るの"かも"しれないから、向こう側で足を、懐中電灯は僕が持っているよ、と言い、私の手首を強く掴んだ。小学生の集団から遠く離れた林の中、彼は気分が悪そうな顔をして座り込み、早く見てよ、と言った。その時私は訳もなく緊張し、手が震え、彼の体操服を捲る事が出来なかった。それは恐らく、何故彼が暗闇に連れ込んだのが私なのか、そして何故具合の悪いふりをするのかが分からなかったからだ。そんな私を見た彼は次第に苛立ち、呼吸が荒くなる様子を大袈裟な素振りで見せた。そんなに苦しいのか、そんなに怪我が痛いのか、何故そんな嘘をつくのだろうか。私は彼が嘘をついている事は分かっていたが、その場で用意された「彼が病気」という重苦しい設定に圧迫され、そして洗脳されたように彼の病気を早くどうにかしなければならないと心臓の鼓動が早くなり始めた。彼の足は、今にも腐り、溶け出し、血が流れ出す寸前だったのだ。

「保健の先生呼んでくる!」と言いコテージの前へ駆けようとすると、彼が目を見開いて見てよ、と静かに言った。

 

痛い、病気かもしれない、

と言いながら彼は自ら体操服を捲り上げようとしていた。その時の顔は完全に笑っていて、私と目が合うとさらに笑った。その粘着性のある濃い表情で私の現実は少しずつ破壊されていく。笑った顔を誰かが殴りはじめ、顔の形が無くなるくらいに壊されると、崩れた肉片から新しい口が生まれた。その大きく赤い口は耳の辺りまで裂け、そして再びにっこりと笑う。捲り上げられた足の色はなぜか真黒であり、時々皮膚の色が奥から覗いているらしかった。なぜこんなにも色が変化するのだろうと考えていると、彼の足に歪な凹凸が出来ているのが分かった。その凹凸は彼の足を上へ行ったり下へ行ったりし、予測不可能な曲線、あるいは円を描くように、あてもなく彷徨っていた。しかしそれは、単なる動きではなく、何かが彼の足を侵食し、貪りつくように、激しく、そして気味の悪い蠢きだった。

 

彼の足には無数の黒い芋虫が張り付いていたのだ。その風景で映像は終わり、次には瞬間が閉じ込められた写真になる。彼が無数の虫に身体を犯されている瞬間の写真だ。その写真が頭に浮かび「彼は何故それを私に見せたのか」を考えた瞬間の、自分の頭のなかで起こった回転にこそ、快感が含まれている。そして、その回転の遥か前にいた自分や時間は元に戻らず、破壊されてしまうのだ。この映像と写真にぶち壊される前に、私が考えていたのは一体何だったのだろう。覚えているのに思い出せないような、覚えているのに思い出したくないような気持ちになるのは、この圧倒的な破壊力のせいだった。「普通の日常」というのは、圧倒的な破壊力に壊されるべくしてあり、そしてそれらに侵食され、私にさえ忘れ去られてしまう事柄のことなのかもしれない。

 

私が考えたのは「彼はもしかしたら私が彼を"気持ち悪い"と思うことが目的で、気持ち悪がっている私を見たかったのではないか?」という事だった。そして、その様に考えて自らの足を差し出し、貪られる事を選んだ彼の事を考えると何故だか気持ちよくなる事に気付くのは、いつも破壊の後だった。気持ち悪がられることが気持ちよい彼と、気持ち悪くなることが気持ちよい私の精神的な関わりは、今でも日常の中に破壊する快感として、夢の狭間に現れている。

 

気持ち悪くなれば気持ち良くなってくれる人がいる世界が、とてつもなく不気味だった。しかし、自虐的な身体の晒し、性の歪み、間違えた方向へ伸びた男性的な強さに対して、愛や母性を感じるということ、そして「不気味」「恐怖」「異常」を感じ精神的に傷付く見返りに、相手が快感を感じて"くれる"のが嬉しく、傷付いた痛みが異常なやり方で治癒されていく感覚に少しだけ満たされたのだ。彼は、私がこのような感覚を感じやすいということを、見抜いていたのかもしれない。あの時、初めて彼の為に彼の事を気持ち悪くなった時、彼と私が抱えていた少しの暗闇が弾け、回りの空気に溶けていった。彼は「好きだよ」と言っていた。