ドッペル原画展

喪失

細い道の向かい側から、部活動合宿帰りの団体が歩いてきて、僕は細い道の向こう側へなかなか進めなかった。それは永遠に往来し続ける羊の群れで、細い管の中を何千年もかけて行ったり来たりする儀式の様に見えた。僕はその儀式を邪魔しない為に、約8分間、群れが通りすぎるまでずっと待っていた。長い時間だった。遠くで遠くて近いような夕日だねと少女が叫んでいた。それはインスタに投稿する為の、単なる余興的偽精神疾患だと気付くのに、僕は一秒もかからなかった。

家に帰ると、先程まで抱えていた花束が消えていることに気付くのだった。恐らく、すれ違い様に羊の群れに盗られたのだろう。僕は酷く落ち込んだ。新作のanelloのリュックと大瀧詠一のレコードを我慢して買った花束だったからだ。あんなに欲しかったそれらを、何故我慢したのだろうか。何故、と考えても思い出すべき事が何も無いように感じ、今では花束よりanelloの新作リュックと大瀧詠一のレコードで頭が一杯になっている。どうやら僕が盗られたのは花束だけでなく、花束に付随する全ての意思であった。あるいはそれは、花束を渡そうとしていた何かや誰かの死でもあった。付随する全ての意思が失われ、殺されていたのだ。花束を何処で買ったのか、買った後誰に渡そうとしていたのか、何一つ思い出せなくなったのだ。………僕は村上春樹の読みすぎで、生活に何か不思議なことを求めているように日頃感じていたので、明日の朝病院に行くことにした。

医者は僕のこの症状について「精神的な乱れ、もしくは虫歯ですね」と言ったので、医者に向かって今朝買ったばかりの銃を向け、人を撃つまでの発作的な心理状態を欠いたまま、医者の頭を撃ってみたりした。簡単に倒れた医者の向こうにある棚には、患者のカルテと、僕の花束があるような幻覚が見えた。その幻覚の後ろ側にある、小さくて柔らかい枕のようなものにピラミッド型に積み上げられた錠剤を見た。そしてそれを指先で崩していった。僕はその中から無作為に27個の錠剤を取り出し、スーパーの袋に入れたのだった。

幾つかの錠剤をいれた袋は、僕には重たすぎた。重たい銃も共に入っているからだ。あとどのくらい道は続くのかと遠くの方に目を向けると、群れがこちらに迫ってくるのが分かってしまった。今度は皆弓道部であるらしく、弓を抱えている。矢はどうやら僕に向けて。羊の群れだ、と思った時、どうしようもない不安が僕の喉までせりあがってきた。これは、あの時の不安に似ている、と思った。僕が誰かに裏切られた時、裏切られた事が自分の存在の全ての終わりのように思えたせいで、生命がどんどん脆い醜いものになっていく瞬間の、あの、感覚そのものだった。怖い人が大勢いる果てしなく広い場所に、何一つ包み隠さず、脆く柔らかくなった物体のまま、曝されるような、孤独な不安だった。

不安は喉元から飛び出て、僕は嘔吐してしまったのかと思ったが、実際には嘔吐しておらず、彼らの矢が僕の喉元に刺さる瞬間を、冷静なまま認識してしまっていただけだった。刺さった瞬間、ふっと腕から重みが消えていく気がした。此処は失う管であった。僕に向けられた矢は僕に本当に刺さり、体中が血だらけになっている。しかしそのまま、僕は今駅に向かって歩いている。なぜなら、孤独な不安を感じていても、僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前の僕の目の前には僕がいて、不安が分裂し、僕一人が経験する不安が錠剤一粒よりも小さいものになっていたからだ。その程度の不安であれば、僕達は駅に足を運ぶことなど容易であった。

僕達は最近新デザインとして店頭に並んだanelloのボア付きリュックに、GUのスキニーを履いていた。コーチジャケットは女からもらったギャルソンのコーチジャケットで、シャツはメルカリでかったMHLのノーカラーシャツだった。実を言うと、僕達はシャツはフィリップリムのものを欲していた。「でもブランドなんてどうでもいいんだけど」と言いながら管の中を往来していた。最後尾の僕は僕達の往来を体感で約20時間待ってくれていた羊に礼を言った。しかしながら実を言うと、僕達は羊に意思を欲していなかった。「言葉が話せないのだから往来を待つという行為で何が失われたのか君達には分からないだろうね」と思っていた。しかし、僕達が意図せず羊から盗んでしまったのは、一人で抱えきれないほどの大きな不安だった。