ドッペル原画展

氾濫

 

 

新宿GUCCIの前で歌舞伎町のホストに話しかけられたことをきっかけにして、私はクリープハイプ尾崎世界観になれることを確信した。ここではない世界や今の自分と違う価値観を武器にして、堕ちるところまで堕ちていける予感がしたのだ。今から抜け出して違う世界に行きたい気持ちが私を焦らせる度、簡単に行ける世界にどうしても目が眩んでしまう。綺麗で素晴らしいところに行くには、余裕が全く足りないのだ。これから先も自分の世界と交わらない場所で、似非サブカル作家が地下アイドルについて純文学を書き上げる中、私はノルウェイの森を写生している。やれやれ、の言葉が出ると微笑する。私は失敗をした。自分の世界と交わらなかったはずの人間と関わることで行ってはいけない町が増えた、見てはいけない文字が増えた、読めない小説が増えた、言えない言葉が増えた。素直に笑えなくなった。出てこられなくなったそれらは心のなかで大きな影になり、一番大切な感情を隠している。光が欲しい、川谷絵音ベッキーが結婚する光を望んでいる。その他の光、私を照らす光は、終わりや終演といった最後を感じさせるものに近い。それは月光のようなものであり、暗闇で暗さを引き立てる様にぼんやりと存在している。私は時折成功もした。交わるべき人と関わる運命を体験した。それなのに、運命と交わるとどうでもいい他人が付いてくる。私だけの運命が他人との運命を孕んでるという事実が果てしなく気持ち悪い。私は人間関係に潔癖だったのに、汚物が入ってきたことで成功は全て失敗になった。でもそれは大したことない失敗だった。大して深くもない穏やかな失敗の中に長居しすぎて抜け出せなくなっている。穏やかに時間が流れる空気の少ない場所に、その失敗と一緒に居るのが一番居心地良くなっているのだ。居心地が良いというより、そこに居ないと許されないのではないかと思ってしまう。私は精神的な被虐願望があるのかもしれない。いつまでも失敗のことを考えている。考えた結果分かるのは失敗した原因の殆どは汚れであるということだ。頭や呼吸がぐるぐるして汚いものに思考が汚されていくのを、必死で耐えなければならない。他人が撒き散らしている汚物に触れて、純粋な自分を偽物だと律し、汚いものを事実として自分の眼で真っ向から対峙しながら耐えなければならない。そうやって習慣的に、浮足立つ気持ちをマイナスに持っていかないとバランスが取れないのだ。その行為自体がもう癖になってる。それが生きるということで、それが「大人」なのだということもはっきり分かった。汚いものと対峙することで本当に綺麗な物を認識できるようになるのではないか?むしろ人生の殆どは汚物で、その中にたった一つだけ、あるいは死ぬ間際のたった一瞬だけが綺麗であるというのが当たり前なのではないか?うんざりする、未来が無い、私にはそのたった一つや一種ですら感じる心が無い。全部誰かのせいだ。心の重さで少しずつ沈んで行くのが分かる。それでも私は汚いものをこの眼で見て、自分を殺す真実を知って、それを物語にしたいのだ。自分を律する方法がそれしかないのだから。

ちなみにこれらの文章は全て思いついたまま頭の中にある独り言をそのままに書いている。私は普段電車の中や食事中や他人と話している時でさえ、こういった類の気持ちで頭がいっぱいなのだ。頭の中から気持ちがとんでもない速さで氾濫し、早口みたいな言葉になっている。頭が詰まっていて、いつも空っぽに、クリアにしたいと思っている。

摂食障害者にブログを読まれてるかもしれない。吐き気がする。存在するだけで人を傷付け、世界に対する感性を歪ませるような迷惑な人間にだけはなりたくない。大抵そういう人間は汚い。よく生きていられるなと感心する。私だったら心が重すぎてどうも生きられない。可哀想。