ドッペル原画展

無害

12時半を境目にして腕時計の針は動かなくなった。今まで動いていたものが急に動かなくなるのは人の死と似ている。寂しさを覚えるのは、確かに時計が動いていた過去があるにも関わらず、それが今後一切再開されないと確定してしまったからだろう。意味の有ったはずのものが、意味の無いものになる。可能性を持っていた物が、ただの残滓になる。私達も少しずつあらゆる可能性を減らし続けているのだ。咳払いをわざとした。呼吸を止めていることに耐えられなくなったのだ。「時計が壊れちゃったみたい」と言うと、彼女は「時計?」と言った。もしや時計が何なのか分からないのか。まるで彼女の世界には初めから時計が存在していないような表情をしている。彼女のその表情に言葉を奪われた喪失感を感じながら、今とは全く関係の無い過去を反芻している。「この前食べたパンが犬のしっぽみたいに美味しくなった」私は会話がややこしくなる予感がすると即座に別の話題に意識を逸らそうとする癖がある。「時計?犬のしっぽ?」もしや、犬のしっぽが何なのか分からないのか。「うん、そうなの。ところで私達は誰を待っているんだっけ?」肝心な問を投げたが彼女はそれを無視し、鞄から取り出したCDプレーヤーで何かしらの音を聴き始めたようだった。

私は読書を始めた。

早く代わりの時計を出してください!

偶然か必然か、読みかけの小説の中でも時計が壊れている。それだけではなく、反芻の中に在る小さな部屋の壁掛け時計も時間が大幅に進んでいたのを思い出した。私は世界が今何時か分からないことより、身の回りの時間が混乱している事実に不快感を覚えた。混乱は人を不安にさせ、幾重にも不快感を重ね続ける。まるで地下へ続く変形したらせん階段の様に、渦巻きながらより深いところへ落ちて行くのだ。この不安の原因は彼女の無知に対する怒りだろうか。あるいは、昔見たあの男の顔が忘れられない故のものなのだろうか。

こうしてあの男について考える度一つの疑念が浮かび上がってくる。それは《あの男はあの時もう既に死んでしまっていたのではないだろうか》ということだった。あまりにも覇気の無い男が手ぶらでのっそりと立ち、駅のホームへ続くエスカレーターの横から私をじっと見ていたあの情景が、どうも現実に起こった事とは思えないからだ。現実に居なかったはずの人間を見てしまった感覚、既に死んでしまった人を見てしまった感覚、そういうものは人を不安にさせる。男は夏なのに分厚い茶色のセーターを身に纏い、顔は青白く、瞼の幅が広かった。幅の広い瞼は瞬きをほぼせず、曲線で描けそうな黒々しい髪の毛と痩せた体は着物と下駄を連想させた。その季節感の無い見かけと西洋画に描かれそうな顔つきは異様であり、駅には何の用事も無い人に感じられた。つまり、これから電車に乗って何処かへ行く様な雰囲気が感じられなかったのだ。まるでこれから死のうとしているような、もしくは誰かを殺そうとしているような、その類の、人生を左右させる決意をした後の静けさを持っている様に見えた。細くて長い指で胸元から果物ナイフをゆっくり取り出し、背後から女の首元を切りつける。その後凶器になったナイフで自身の手首を切り入水する。背後から切りつけられるのが私だ。死体となった私は入水する彼と視線を重ねている。とても長く。

重なった視線を解くと私は生き、歩いていた。所詮妄想に過ぎない。彼の存在もナイフも。改札口へ続く下りエスカレーターが急降下している。どこまでも深く地下へ潜り混んでいく落とし穴だ。らせん階段みたいにうねり始めるエスカレーターが怖くなり、私は躓き、清潔な布の上に倒れ込んだ。ひんやりしていた。蝉の声が聞こえ、空耳を恥じた。涼しい風が吹いているが瞼の裏には風が来ない。風を探して手を伸ばすと、私は丁度臍の辺りで2つに分かれた。上半身と下半身になった私達はお互いの距離を伸ばし、離れ、風を探し、何も掴めなかった。代わりに掴んだのは無機質な鉄で出来たベッドの骨組みだった。そうだ、ここは病室だった。彼女はベッドの横に座り、私の顔を静かに眺めている。「おはよう」と彼女が言うと、あの男について考えたのが悪いことの様に思えた。彼女の存在を無視し、寂しくさせたのではないかと思ったのだ。寂しさ。それに共感しようとすると、心臓が一度跳ね上がり、収縮した。私達の間には誰か他人が必要だ。待ち合わせの人はまだ来ないのだろうか?手首から上に伸びる細い管の様な腕時計はいつまでも時間を刻むこともない。いつの間にか私は眠ってしまっていたようであった。

「誰か来たの?」と私が聞くと、彼女は「貴方をこんな風にした人が来たよ」と言った。こんな風に?と思い聞こうとしたが、私が声を発するより先に彼女が「今日は久しぶりに外に出られるから、海にでも行こう」と言ったので、海へ向かうことになった。今何時なのか知りたくなる。暗い時間に帰ると犬に吠えられ犯されるからだ。「今はまだ午後3時だよ。大丈夫、安心して。」彼女はよく見ると、彼、だった。

夏の暑さは室内にいると感じられない狂気である。だから私は狂気的な暑さですら少し嬉しく思った。慣れない人混みに恐怖を感じ、痛み無く心臓が押しつぶされる感覚に陥る。満員電車に乗りこみ、何駅か過ぎた所で滴る汗を彼が優しく拭いてくれた。「あつい?」と言う彼の声は何故かとても柔らかく、その柔らかさは私に媚びるようだったので恥ずかしくなり、わざとらしく窓の外を眺めた。途端に爆発の様な音が聞こえ、黒い川の上に3つの光の輪が浮かび上がってきた。「花火だね」と彼が言ったので、私は実質的に彼と花火大会に参加できたのだと思った。浴衣を着て川沿いで見る花火よりもずっと特別な事だった。偶然の花火は神様から私達へのささやかな祝福のように感じられたのだ。

まだ私にも神の影が少しでもあるのかと思うと、これからいつかは絶対に死ぬのが嘘みたいに思える。こんなに生かされてるのに、死ぬなんて。絶対的に死ぬなんて、そんなのあり得ないでしょう。

「死ぬことなんて非現実だよね」

「非現実?そんなこともないね。現に君は一度現実の中で死のうとしたんだ」

いつもの動画を見せてあげるよ、と彼が心底嬉しそうにiPhoneを取り出した。君が狂うと可愛いんだ。胸元から出したナイフで手首を切っている映像で、細部は見れば解ると思うけど、僕はこれを見て何度も興奮したよ。

「海辺でじっくり鑑賞しよう」そこに墓もあるんだ。海辺の墓がある。彼がそう言って電車から一緒に降りた時、向かい側のホームにあの男が立っていた。久しぶりに本物を見た。着物と下駄を身に纏い、屋根のついた駅のホームで傘をさしていた。茶色のセーターではないのか、と思ったが着物は涼しげで良かった。私と彼の丁度真ん中あたりの空間をうつろに眺めるその顔は、あの男は太宰治だ、と気付いた時、私は冷えた海辺で彼に殴られながら愛されていた。自分の瞼が水気を持って開くのを感じ、目が合った彼の寂しさに共感した。