ドッペル原画展

説明

 

 デパートを出て改札へ向かう途中、館内放送で女の笑い声が流れた。その放送を聞いているのは私だけなのかもしれないと思ったのは、殆どの人々がスマートフォンを眺めながらイヤホンで耳を塞いでいたからだ。私も普段はイヤホンを耳栓代わりに使っているが、その日は雨の音を聴くために外していた。突然の豪雨で傘を持っておらず、純喫茶赤い糸の前で雨が止むのを待っていたのに少しも止まなかった。早く横になりたくて目的地も無いまま歩き、たどり着いたのがそこだった。コムデギャルソンを見る必要があると思い中に入ったが、全身が濡れていることに気付き、そのまま近くの駅に向かったのだ。

 「本日はご来店頂き」というアナウンスの後に少々の笑い声、「誠にありがとうございます」を言い終える前に、女は再び大声で笑った。「誠にあり」までしか聞こえない館内放送が駅で流れても、誰一人としてスマートフォンから目線を外さす、疑問を明らかな行動で示そうとしない。私は立ち止まっていた。生きることに慣れるのと、何事にも関心を持たないのは違う事だと自分自身に言い聞かせたかったのかもしれない。だから敢えて、駅のホームに群がるロボット達に騙されないよう、立ち止まった。

 この状況、この音、それぞれの生活、それぞれの人生を、私意外の誰もが不審に思っていないような予感が怖い。そして、その予感は全く外れており、この中で一番何も考えていないのは自分自身であるかもしれないという不安が恥ずかしく思える。駅のホームで顔の見えない誰かの笑い声が流れるのを、誰一人として気にしていないというその単純らしい光景が、私を酷く混乱させる。あるいは、そんな"普通"の出来事に、ここまで乱される自分に恐怖した。笑い声の後に女は続けた。「雨の中、みなさん、なんの価値もない物質に価値を求めて、みなさん、本当に、皆さん!ご愁傷さまです」それもまた半笑いだった。

 立ち止まる私に何度も他人がぶつかった。中には舌打ちをする人や、怪訝な目で睨む人も居た。その間もずっと女の笑い声がクスクスと響き、どうやら音声ボタンを切り忘れ女の声がホームに筒抜けになっているようだった。騙されまいと立ち止まった私がやはり間違えだったようであり、今私と同じ気持ちである人が誰一人としていないという孤独は濡れた体を異常に震えさせた。急ぎ足で改札を通る大学生に「こんなのおかしくない?」とドミコなら聞けたのだろうか。呼吸が苦しく、お腹が痛み、脳の右奥がみしみしと歪んでいく気がした。体は大丈夫なのだろうか?と自分を労ろうとすればするほど、無駄な緊張が高まっていくようで、またその状況にも焦り、尚更呼吸が浅くなる。妙な冷や汗と硬直していく筋肉が、無理やり指先を震えさせているように思えた。おそらく、今一番壊れやすく、壊れそうなのは、心だろう。子供の頃から成長していないはずの心は、私の想像の中で荒々しい石のような固形物を身に纏い、見ることができなくなっている。固形物は外側にある心の膜を真赤から透明に変える程肥大し、透明になった部分は今にも破けそうである。その凹凸は掴んだら痛みを伴う程に固く、膜はもう膜の役割を果たしていないように思える。膜が破けてしまったらついにそれは破裂だろう。そしてその破裂は近いだろうとすら思った。病気のこと、未来のこと、過去のこと、欲しい香水のこと、全てが私の想像力を圧迫していた。天井をみるだけの日々が、私の中で永遠になっていく。雨の日なのにわざと目を曇らせることがよくあり、その曇った視界で永遠から抜け出す気力も無いのだ。傘もささずに外で立っていると「これ、良かったらどうぞ」という声が聞こえた。私はそれが何なのか分からずこれは何ですか?、と聞くと「あ、ハンカチです」と言われた。「大丈夫です、雨宿りしてるだけなので」私は自分を気味が悪いと思った。差し出された何もかもが、何であり、何の意味があるのかが理解できなくなっていた。早く修理しなければ、酷い状況に陥ることが、毎日証明され続けているのに、どうして更に状態を悪化させようとするのだろか。私はどうしようもなくなり、常にポケットに忍ばせている剃刀の刃の冷たさを脳に思い浮かべた。そうすると水の香りが鼻孔から抜ける。私にとって冷たさは水であり、その冷たさで破壊される自身の皮膚は温かい雪の様だった。雪なのに温かく、温かいのに雪である。その不思議な皮膚を、いつも破壊したくて堪らなかった。水で溶けた雪からは温かい血が流れ、それは浮遊感をもたらした。何処かに自身の存在が消えてしまいそうな程の浮遊感が恐ろしく、目の前に他者がいれば消えずに済むのだと考えていた。

 数分前に連絡をした男から電話が来る。南口改札の時計の下で待っている、と答えるとポケットの中に手を入れた男が遠くから歩いて来るのが見えた。眼前に立ち止まった男は、ゆっくりと私の雪の中に刃物を滑らせ、同時に男自身のそれにも刃物をすべらせた。男は少し背伸びをし、震えたが、私の肩に軽くもたれた。その瞬間、理想の部屋がフラッシュバックし、行きたいレストランの雰囲気が色として現れたが、それらが全て白い眩しさで見えなくなった。私の心はやっと壊れた気がした。想像の中の石は溶け出し、すっかり全て液体になった様だった。体の何処に消えていったのか分からない心は、全て形無いものである。これでもう私はしばらく何も感じないだろう。館内放送の笑い声はまだ止まっていなかったが、私の思考回路にはただ一つ大きな海の映像を思い浮かべなければならないという強迫観念があった。波が多く、白い海でなければいけなかった。

 いつの間にか目の前にいたハンカチの彼は驚いた顔をしている。「実は、君のことが心配で着いてきたんだ」そして、眉をひそめながら「でも、何故こんなことをするんだ?」と言った。私は尚も大きな海の映像を探していた。彼の差し出したハンカチに手を近づけたが、男は私の動作を見て怯える様に手を離した。床に落ちたハンカチは血に濡れ、赤い線が無数の糸のように広がっている。白い海でなければいけないのに、何故いつも私は間違えた物を捉えてしまうのか、何故赤い海が差し出されるのか、それを理解する為の時間が欲しかったが、そのような時間はもう何処にも無かった。

 

最近読んだ本

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モノグラム 江戸川乱歩 偶然の連続

黒蜥蜴 江戸川乱歩 結構現代的ドラマ感があり良い

幾度目かの最後 久坂葉子 幕が降りる様子

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冬の花火 太宰治 女に裏切られる男

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いのちの初夜 北条 茂雄 命の価値、捉え方

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創作家の態度 夏目漱石 かなり良い 教訓になる

ドストエフスキーバルザック 坂口安吾 同上

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