私が壊れかけたころ社会も壊れかけている様に、風が吹いたころ海は轟音を鳴らし、ライブハウスの2階からプールの水が少しずつ滴っている。暗さや明るさは球体の中で起こる一つの事象であり、色々な関連が時間を一つの球体に纏める。過去の無い主人公が黒猫に帰依するのを真似たいと思い、私は空になる事ばかりを望んでいるような気がするが、その気持ちの起伏や動作にしても、一つに纏められているのだ。大抵の変化は一つの球体の中に同時に存在し、同時に存在しなければ変化そのものですらなくなる。火のついた蝋燭に天使が息を吹きかけ、蝋燭の火が消えるという一連の流れを「変化」として見たいのならば、天使の吹いた息を核として、火のついた蝋燭と火の消えた蝋燭は同球体に入っていなければならないということだ。死と生が離れたところにある場合、肉体の居場所が何処か分からなくなるような違和感を覚えるのは、変化であるはずの生死が同じ球体に入っていないからなのだろう。
3月の終わり、全身麻酔を核にして私は重い鉛のような球体の中に入り込んだ。体の内側は切り取られ、灰になり、埋葬された。初めに弱い麻酔を入れられ、その次に「"本格的"な麻酔入れていきますよ」と言われた瞬間足先がじんわりと重くなり、次第に崩れて溶けて軽くなっていった。重さの限度を超えて逆に軽く感じるような、冷たさの限度を超えて逆に暖かく感じるような、憎しみの限度を超えて逆に愛せるような、そういう相反する感覚が体全体を被っていった。死ぬ前最後に聞いた言葉が「よく顔が赤くなったりしますか?」だったような気がし、私は赤面症なのかもしれないです、としっかり答えられたと思う。
起きて、私の体は変化していた。私の体は以前の私ではもう無くなっていた。大きな眠気に包まれたが、このまま眠ったらもうこちら側に戻ってこられないのではないかと思い、必死に起きていた。眠りはまるで自らの変化をそこでぷつりと止めるような、一つの球体から外れるような逸脱感のある儀式だった。何かが起こったその後が自身に無いという状況が、死ぬということなのだ。私はそして気付き、死への恐怖と生への憧れや欲望が同時に球体に存在していた。最近観た映画に「欲望という電車に乗って墓地で乗り換え極楽で降りるの」「死の反対は欲望」というような台詞があったが、私はその一連の流れに居て、そして今それが壊れかけていくような気がする。
楽しみにしていたことがあったのに無くなってしまいとても悲しい。NewOrderのライブやösterreichのライブ、THE NOVEMBERSのライブ、喫茶「天国」に行く約束、観たい映画。このままそれらは成されることもなく、そしてこれからもう一生何も出来なくなってしまうのではないだろうか。これが最後だと知らされずに、少し時が経ってから「ああ、あれは実は私の最後だったんだ」と思い知らされるような出来事が、予告無しにやってきたような、呆気なさがある。今は何を信じる(信仰的なもの)べきなのかも分からなくなりつつあり、臨死体験について調べたり、宗教について調べたりしている。欲望が削がれていくのは、今の状況に慣れる為の自己防衛反応なのだろうか?恐怖ばかりが募り、それも炎のように激しいものではなく、ゆっくりと溶けていく長い蝋燭みたいな恐怖だけが、壊れかけた球体の中で変化をしていくことに、とても疲れている。
Listen to 幻肢 by österreich on #SoundCloud https://soundcloud.com/onlyifyoucallme/lzt90bqwu91w
わかっていた、分からずにいたこと
何もかもを返して祈りに似た言葉をまた
尊敬する大好きなアーティストの音楽
手術前も手術後もずっと聴いていた
そのアーティストへのプレゼントに、銀の鉄で出来た天使のモチーフを買う夢を見た。揺らすと天使が抱えている鈴が優しく鳴り、とても綺麗だった。
最近読んだ本
不連続殺人事件 坂口安吾
斜陽 太宰治
愛と美について 太宰治
春の心臓 イェイツウィリアムバトラー
人生 夏目漱石
黒猫 ポーエドガー・アラン
小説の面白さ 太宰治
早すぎる埋葬 エドガー・アラン・ポー
モルグ街の殺人事件 ポー・エドガー・アラン
掏摸 中村文則
王国 中村文則
逃亡者 中村文則
最近は本を読むより映画を観ている