ドッペル原画展

瞑想

 

私は昔から瞑想に興味があり、瞑想によって心が救われることや、天国への行き方の練習にさえなることを信じていた。最近は「日々命を削り心をすり減らしながら生きている」という感覚が強く、このままだと早死する気がするので、寝る前に瞑想している。何なら、電車の中で目を開けながら瞑想している時もある。目を開けながら意識を何処かに飛ばすのが大の得意なのだ。

瞑想について調べていく中で印象的だったのが、恨みや嫉妬といったコントロールしにくい感情と、瞑想を通してどう向き合うかという話だった。 

方法としては、怒りを抱かせた人、そのような状況を作った人を思い浮かべ、その人が2m程前に座っている状況を想像する。そして、その人が抱えている悩み(精神的、肉体的など)を想像する。自らの呼吸で、その苦しみを吸い込む。吐く時に、その苦しみを幸せなイメージに変える、自分の幸せを分け与えるように。そうすると自身の幸福感が増すらしい。要するに、目の前の大嫌いな人は、私と同じように心に困難を抱えていると思える想像力が大事だと言うことだ。そして、本来だったら嫌悪するはずの人物に、自分の幸せを分け与えられる心の余裕も同時に必要になる。

正直、嫌いな人が2m程前に座っている状況がまず耐えられなかった。吐きそうになると思うし、近すぎる距離感は恐怖を覚える。その上、その人の内包する痛みを吸い込むなんて、とてもじゃないけど出来る訳が無い。その時、急に綿矢りさの「かわいそうだね」が読みたくなってKindleで買った。今まで読んでなかったが、タイトルだけ知っていた。かわいそうだね、に込められた感情はどれなのだろうと少し気になっていた。「かわいそうだね。」「かわいそうだね!」「かわいそうだね?」「かわいそうだね?!」「かわいそうだね…」「かわいそうだね〜」今回の瞑想に必要な感情は「かわいそうだね?」ではなかろうか。(読むときに気付いたが、本の正しいタイトルもかわいそうだね?でした)

存在というのは不思議だし、立体感というのも不思議だ。目の前に居る人に「かわいそうだね?」という気持ちで語りかける。目の前の人顔はどんどん霞んでいき、次第に自分に似た誰かになった。誰かの痛みを吸い込んで幸せに変える行為を繰り返していると、呼吸が安定してくる。心も同時に軽くなり、体の痛みが無くなるような、そんな満足感に包まれる。

 

効果があったのか、それとも時間が解決したのか分からないけれど、私は色々なことを許すというより忘れてきている。でも、忘れかけた痛みを掘り起こして、それを展示会にしたのがソフィカルの「限局性激痛」ではなかったか。苦しみや悲しみはいつでも思い出せるのがいい。ただ意図的に忘れたと思い込んでるくらいが丁度いい。意図的に忘れたものは、意図的に思い出せるはずだ。

意図的に忘れるために瞑想をし、いつでも意図的に思い出せる様に毎日日記すら記録し始めている。私の命は毎日少しづつ磨り減っていくのだろうか。まず自分の命の大きさを図り、1日につきどのくらい小さくなっているか調べ測る必要がある。ホロスコープ上で、私の金星は強く、大きい。でも命をすり減らしているからか、金星が死にかけてきている気がする。ホロスコープを見て、占星術で自分の性格や、今の運勢を見るのも好んでやっている1つの趣味である。中村文則の新刊でも、ホロスコープについて触れられており、なんだか嬉しかった。次は私もカード師の主人公のように、タロット占いでも始めようかなと思っている。

 

綿矢りさ かわいそうだね?

坂口安吾 堕落論

ウエルベック 服従

中村文則 カード師