このままでは死ぬ気がして生きる目的や喜びのような何かを馬鹿らしくも考えた。真剣に考えて、色々環境が変わった、結果、結局求めているものものは地位名誉や肩書でも人脈でもなく、何も当てはまらないのだと気付いた。全てが辛く生き抜くことが遂に完全に難しい。息が出来なくなるほど重たい能面を被って、居るべきではない場所に居るだけの屍。欲しいものはただの安らぎ。ただ一つの安寧。穏やかな死。
何かが壊れたと思い、見渡すと夜空に花火が打ち上げられていた。落ちて壊れたのではなかった。昇って開花した音に、こんなにも恐ろしさを感じるのは私だけではないはずだ。嬉々として眼中に眩い原色を映し、万華鏡のようになった人びとが、波になって私を押しのけていく。私は立ち止まり、通り過ぎていった人びとの行末を気にしている。しかしそれを知る術は当たり前に無く、知る必要も一つも無かった。湿気と人間の荒い息遣いが汗の粒子に乗って纏わりつく。果てしない坂道は、今此処で立ち続けていることを許さない傾斜で、足許が震えた。
関係者ばかりの能の舞台に無理矢理連れてこられた時の息苦しさに近しい。能は神に捧げる伝統芸能である故、目の前の舞台に降ろされた神が生々しく実在するのだが、その実在に、自分だけが歓迎されていないのだと気付いたときの恐ろしい震え。血筋という強固な鎖に繋げられた家系の環の中心だけに、舞台は存在するのだった。知る術も無い、血にインプットされた神性の様なものが、隣に座る母には無く、母の連れ子である私には尚更あるはずが無かった。母にはあまりにも神性に対する憧れのようなものが無さすぎた。異常に執着した私のほうが父に愛されていた。吐き気と足許の震えが収まらず、何故だかいつも以上に自分の居場所が分からなくなっている。夏のせいである。人混み、他人、息苦しい空気、思い出した疎外感、私はいまでも独りだった。
人工的に整理された駅の地下で無農薬野菜を買い、よく冷えた部屋へ帰る。冷たさは病院のようであり、診察室、手術室、霊安室で言えば、一番霊安室が一番しっくりくる。帰宅したら霊安室でサラダをつくる。父の帰りを待つ。
坂の上で花火を見たことを伝えると、私の首筋に顔を近づけ「この匂いは私の家のものではない」と言った。意味を問いただすと「お前の汗の匂いは私達家族のものとは違って、人間らしくて良い」という事らしかった。私の首に顔を埋めながら、欲深い、不潔な、汚れた匂いだと言って、乱暴に扱った。私はこうされることより、自分の血を憎んだ。父の顔が分からなくなったのはいつからだろう。最初から、能面を被っていたから、一度も顔を見たことがないのかもしれない。
私の顔や胸の上を冷たい肌が通り過ぎてゆく。能面の口許が歪んで開く。底の見えない黒い空洞の奥から長い白蛇が這い出て、舌を動かしながら私の顔に近づいてくるのだった。私の口許にそれが触れた瞬間、眼前に聳える人間ではない何かを思い切り突き飛ばした。枕元に置いてある陶器で出来た像が凶器になる気がした。握りしめると掌の汗で滑り落ち、壊れた。首と身体の2つに割れた陶器の境目は、細く尖り鋭利なナイフのように見える。身体の内側が空洞であることが不自然だった。壊れた像はマリア像で、これは母が私に遺したものであった。
空洞の中に何か詰めなくてはならないと思い、壊れたそれを拾い上げる。鋭利に尖った部分を無意識に強く握りしめたせいで、掌が酷く痛んだ。この美しい凶器で能面を壊せば、父は人間になれるのではないかと思った。
瞬きの無い瞳がこちらをじっと見ている。陶器が掌へ少しずつ沈んでいく。指先から誰とも繋がらない血が滴り落ちる。
(公募小説は書き進めている。小説には合わない色々なイメージを吐き出さずにいるのもつらいので、深く考えず書いた日記をこちらに葬る)