ドッペル原画展

方法

わざと孤独に寄り添うと、必ず後を付けられる。思い悩んで、悲しくてどうしようも無い様な、今にも泣きそうな、今にも吐き出してしまいそうな表情すると。後を付けてきた男に話しかけられて、素直に振り返ったら、其処には小説の中から出てきた言葉が目の前に在って欲しい。絵画でもいいし、アニメでもいい。夢でもいいし、病院行きでもいい。

それでも目の前にいるのは全身から吐き気を感じる偽物の言葉を取り付けた男で、まるで表情が分からない。顔があるのに顔がない。言葉を発しているのに言葉がない。内側が空洞で、外にある孤独を取り込まないと何にもなれない人間。「その孤独が偽物だとしても構わない」と今にも言い出しそうな顔で、私に話しかける。
そんな恥ずかしい台詞を言うわけもなく「ん?お姉さん、遊べる人?」「よくBEAMS来るんですか?」自分だけが嫌な思いをする。無駄な寂しさを吸い取られて終わった。恥ずかしい人間だからもう泣けないはずなのに、ディアマンを聴いたら涙が出そうになる。慌てて寝たふりをして、ふりの中で嫌な事全部忘れる。


私はその日、尾びれがついた金魚を想像する様な、黒くて長いスカートを買った。前から見ると短くて、白いレースと黒い生地の間にはスリットが入っている。歩くと前より長い後ろの生地が揺れ、スリットからは足が見える。(のちにそのスカートは滅茶苦茶にされて無駄な物になった)


スカートを買った後に、道端で『A』を読み終え、家へ帰ってからもう一度『A』の『信者たち』と『嘔吐』を読んだ。その後『誕生日の子どもたち』を読み始めた。『信者たち』の最後の一文が、知らない人の声になって頭の中で響いて緊張した。

部屋の中にいるのに、私は何故か流れる景色を見ている。見ているというよりも、どう頑張っても勝手に流れてしまう景色を感じて、悲しい気分になる事を望んでいる。元気な気分になろうと思えば、自力でいつだってなれると思っていたのに、何処にどんな風に力を込めればいいのか分からなくなっていた。力が在っても、やり方を忘れてしまったのなら意味がない。これは元気な気分作成の話に限らず、その他色々な物事に対して言える。生きる力が在ってもやり方が分からないなら、当たり前だけど、本当に意味が無い。

やり方が分からない満たされない感じられない部分から目を逸らして、それでも時々は何かしたいという意志で目線を元に戻す。そうすると、生活が目の前でただひたすら流れている。それは自分の意志じゃなくて、月とか夜とか朝とかそういう時間的な物によって仕方なく流れていく。でも、その時間に逆らう事だって本当は出来る。私が完璧に独りなら出来た。義務や命令や義理が無ければ、社会から疎外されていれば良かったのに。そうすれば、私は独りで自分の自分だけの時間が流れる所へ行けると思っていた。

でもそんな事は有り得ない事だから、私は常に分からない部分から目を逸らすしかない。目を逸らす事がどうしても怖いなら、流れていく生活を見ながら元気な気分作成方法を始めとした、様々な〝方法〟を思い出さなければならない。何かしたいと感じて視線を戻せば、何かする為の方法を探す必要が有る。偶然其処にある景色の中に。
それが、義務であり命令であり義理だと感じる。



突然の事ながら、私はマンションの4階に住みたい。ベランダから白い紙で作った紙飛行機を電車に向かって飛ばしてみたい。視聴率の悪いドラマのワンシーンみたいに、木漏れ日の朝にだらしないパジャマのままベランダに出て、紙飛行機を外へ投げる。それは楽しそうだから元気になる為の方法になり得るかもしれない。

そのシーンに自分以外の誰かが居る事を想像して不意に心が苛立った。其処に誰かが居ることで、私の日常が誰かによって壊されていくような気がして。例えば小説を読んで、自分も何かしたいと思う。何かする為の方法を探そうとしたその時、目の前でぐるぐると日常が回っていく事が、壊れていく事が、もう本当に嫌なのだ。回っていく事は自分の意志ではない。時間的な物に従順な周りの人間や自然のせいで、私は方法を探す度に何度も壊されていく。好きでもない男と結婚して、毎晩求められたい。それを続けて壊されて、人を好きだと実感したい。

  

君達の目の前で壊されたように泣きたい、とにかく独りになりたい。独りにならないと何も始まらないような気さえする。

そう思った日の夜が明けると、私はいつの間にか病室に居た。病院行きの願いが叶っていた。

夢?

【最近気づいた事】

Ⅰ, 最近、サウンドクラウドに音楽投稿をしている外国人を観察する事が趣味になりつつある。
観察といっても、見る部分は三つ。
①ユーザーネーム
②投稿音楽のサムネイルと曲名
③ホーム画面に表示されるアイコン

①②③を観察する際、「漢字」「平仮名」「アニメ」と「英語」が混合している物を目にするととてつもなく気分が楽しくなる。元気になる方法の一つである。

例えば、
・Mujo情というユーザーネーム
・絶妙なアニメシーンを切り取ったサムネイル
(朝食シーンに登場したと思われる卵かけご飯の絵・煙草を吸うアニメキャラの手元・学園物アニメヒロインの携帯や携帯画面 など)
・曲名に〝栽景〟〝殺意〟〝現実〟〝薬〟〝毒薬〟〝実在〟〝清蒸〟〝低い〟〝社交上の〟など、存在感が在りそうで無いような、視覚的に美しい漢字を取り入れる
・見たこともない様な日本産菓子画像を使う
・鳥居や木魚、釈迦を連想させる画像を使う
・某アニメ銀○やNART○、けい○ん!の画像をそのままアイコンに使ってしまう
・日本アニメのセリフや映画BGMをmixする


ロサンゼルスやハンガリー、サンフランシスコに住んでいる外国人はハイセンスである。

漢字や日本文化を融合させたアイコンやサムネイルを巧みに駆使しつつ、音楽そのものはジャズヒップホップ(私はジャズヒップホップが大好きでサウンドクラウドではジャズヒップホップと気が触れそうに壊れたハードコアとösterreichだけを主に聴いている)が美しく流れてくる。

謎のラップが、トランペットとピアノの不安げで不安定な旋律に溶け込む様な音楽を聴くと、程良い脱力感に包み込まれる。

気分としては、「雨が降っている日に借りたい本も読みたい本もないくせにわざわざ遠くの市立図書館へ行く途中の電車で見る夢」のような、あるいは「本当に単に将来のことや過去のことが不安で眠れない夜に心臓から聴こえてくるダイレクトな死」のような、そういう感じの物だと、思っている。夢であっても死であっても、どちらにしろ何度も聴きたくなる音楽であり、日常が多少楽になる。

私にとって気分としての夢や死は、日常を楽しむ為の道具なのだろうか?では、本物としての夢や死は私にとっていつになれば楽しい物になるのだろう?


Ⅱ, お風呂に入る時、お風呂場の電気は付けずに脱衣所の電気だけ付けて湯船に浸かると落ち着く。


Ⅲ, 思った事や感じた事は、もしかしたら誰かに言わずとも自分自身とずっと共有していけば寂しくならないのではないか。薄々気付いていたけれど、私は昔から誰かと何かを共感する事が苦手だった。

共感出来ない事が理由なのかもしれないけれど、誰かの為に遠くへ出向く事に違和感を感じる。好意もないのに、外出が好きでもないのに、体調も優れないのに、わざわざ部屋を出て感じの悪い電車に乗り、一生懸命言葉を紡いで相手の時間に残る必要があるのだろうか?

こういう考えは、自分の事しか考えられない恥ずかしい人間だからだと思う。

きっと前世は、純文学を読みすぎて人間の内面ばかり吸い取った蛾だと思う。前世では内面にしか興味が無かったけれど、現世では遂に〝自分の〟内面にしか興味が無くなった。「自分の事が大好きなんだね」と言われれば何も言い返す事は出来ないけれど、自分の内面を注意深く観察する事は自分を好きで居るための、ましてや自分に自信を付けて可愛がる為の物ではない。自分の卑屈さと未熟さと、とてつもないダサさに気付き、その気付きをいち早く死へ近づける為の方法だった。理由を内面に探して、また一つ自分を嫌いになれば、なんとなく私は救われた感じがする。開き直る。「自分が大嫌いだから内面を深くまで見て罰を与えている、それも自分自身によって」という風に。


結局、自分で自分を傷付けて救われた気分になるなんて、その時点で自分を可愛がり過ぎている事に気付く。積極的に他人に関わって〝他人によって〟傷付けられる事で救われた気分になれれば、私は自分を突き放して、くだらない考えを馬鹿らしいと笑って、楽しくなれる。これが楽しくなる為の一番簡単な方法かもしれない。



何もかもが今までよりも早いスピードで、止まることなく続いていく。自分のくだらない内面のサムネイルやユーザーネームを考える時、なるべく聖書を由来にしようと思いつく癖がある。