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ドッペル原画展

人魚


TVの中から聞こえる大きな歓声が苦手。
あの音は異常にうるさい、こちら側の安定をわざと掻き乱す様な悪意がある。こちら側が既に混乱している場合には更にその混乱を強めてくれる様な厚意もある。どちらにしても、TVの中から聞こえる大きな歓声の事が本当に好きじゃなくて、どこか遠くから小さく聴こえてくれば良いのにと思う。

歓声が聴こえてそんな風に思ったのは丁度録画していた舞台が終った瞬間で、それは相撲取りが相撲取りを土俵から落とした事によって興奮した他人の声の重なりだった。今のところ相撲には興味は無いけれど、いつの間にか予想外に相撲に興味を持つ事があるかもしれないと思って暫く画面を眺めていた。何でも良いから何かに興味を持ちたい。出来れば毎日その事しか考えられなくなるくらいに。もしかしたらその願いは恋愛が叶えてくれるのかもしれない。インターネットの中で、「好きな人の事だけ毎日考えてる」と仰っている方々をよく拝見する。

特に考えたくもなかったけれど、私は死んだらどうなるのか適当に考えなければならない事になった。相撲の前に見た舞台でそういう様な事を言っていたから。その舞台は実際に生でも見たのだけれど、TV越しだとやっぱり違っていた。生で見た時の感想を読むと自分で書いたくせによく分からなかった。

雑記 -

それでもこの日記からは舞台の設定が少し分かる。人間と人魚の死生観の違いの上に、死にたくないのに死んだ人の苦しみや、命が終わるまでの期間が描かれている舞台。


私は、生きたという事実だけを存在として扱って、その期間に過ごしてきた時間や場所はただの通過点としてすぐ忘れるべき物としてぞんざいに扱うかもしれない。生きたという事実だけが天国へ行き蘇る為の理由であると考える事しか出来ない。死ぬ事は人間の身体が無意味な塊へと戻る事だと思うけれど、とりあえずはその後その塊を置き去りにして、魂だけは何処かで続くと思っていたい。そう信じることで私の中には天国というスペースが創られていく。

それとは違い舞台の中の人魚は、死体に張り付いたまま残った「時間」の場所について考えている。私が通過点としてすぐに忘れる様な「過去」や「時間」こそが生きた証であり、いつまでも残ると考えていた。そういう風に、死体の周りでは時が流れ続けるという事は、不老不死である人魚にしか考えられない事だと思う。時間がなければ生きるという行為すら存在しない。生きている中で過ごしてきた時間は、いつも行き場を失くして彷徨っている。魂以上に魂らしく、あてもなくゆらゆらと時間だけが居場所を探しているのかと思うと、少しだけ今まで生きてきた事が無駄な事ではなかったのかもしれないと思うことが出来る。(これについてはまた今度)


舞台の中の時間は、塩となって海に溶けていた。その設定が私は何よりも好きだった。広すぎる海の中に行き場を失くして彷徨う時間が溶けていると想像すると、海はまるで自分の心臓みたいに偉大な物だと思った。 私にとっての海は、全ての諦観が身体に巻き付き、何かを信じていないとその諦観の重さで容易く海底に引き摺り込むというような恐ろしいイメージがあった。でもそれだけではなく、舞台の中で海の中に時間が溶けていくみたいに、何かを諦めた人間が海底に沈んでいく様子には一種の墓場の様な役割が見えると思った。

海底では、沢山の人が祈っていた。それは、戻りたいという祈りだったように思う。舞台の上で、塩で出来た時間は鱗になり、元の身体もしくは元の時間に戻りたいと祈る時に鱗が逆さになった。鱗=時間と考えてもいいかもしれない。その鱗が逆さになる時に「還っていく」という感じがした。例えば、地上で呼吸をしている自分がもうこれ以上生きられないと思った時に、海底で既に死んでいる自分の元へ還っていく風景。

少しずつ老いていくということは、少しずつ死へ戻っていく事だと思う。自分の死へ戻っていくその途中、生きた期間は海へ葬られていく、諦観や祈りと一緒に。