ドッペル原画展

絵画

家族に監視されていて毎日苦しい


10教科中9教科がSで1つAだった。興味がある好きな事には没頭出来るというのがはっきりと分かる。反対に、興味が無い嫌いな物についてはもうどうする事も出来ない。どうする事も出来ないから、結局放置して無視するようになってしまう。そういう状況になった時は、それら無関心な物事についての記憶がすっかり頭から消えてしまったから仕方ないのだと自分に言い聞かせる。本当は興味のあること以上に無関心な物事は「不安」という形で頭の中の面積を何よりもずっと多く、もやもやとしながら占めているのに。記憶がすっかり頭から消えてしまったなんて全くの嘘だ。興味がある事について考えていると同時に、いつも頭の奥耳の中で無意識に不安を繰り返している。「興味が持てない物こそ自分を苦しめる」「興味が持てない物こそ自分の全てを壊してしまう」「興味が持てない物こそ人生を左右する」そういう不安がずっと消えないまま、じんわりと追い詰めてくるのだ。これからのことについて、生きていくのが難しいだろうという考えにまで、私を追い詰めるのが大好きな不安。興味の無い物事に、いかに頑張って取り組み関心を持つかということが大切だという気持ちに縛られる。興味が持てない物も興味を持っている物も同じくらいの気持ちで捉えられたら、私の周りから不安は消えてくれるはずだと信じている。

文化社会学については34郎やHASAMIgroupについて書いていた。好きな事の好きな部分を子細にただ淡々と書いている時が一番楽しいし不安も軽減する。こんな事を言っているけれど、好きな事について自分の感想や気持ちを流行に沿って感情的に書くのは好きではないし苦手だ。所謂ロキノン記事やナタリー記事のような、感情が大きく浮き出たような文章を私が書いても誰の心も震わせる事が出来ないのだ。私が書いていて楽しいのは、感情的なものよりも、事実として現れている目の前の物をそのとおりにそっくりそのまま多方面から淡々と述べた文章、誰でも書ける文章の事です。

絵画でいうと、それは模写になる。感情的な文章は想像画や創作画になるかもしれない。常にあらゆる物事について感情も感想も思い付く事が無くなってきたのも、あまりにも現実的な存在をそっくりそのまま文章にしてしまうのを楽しいと思ってしまったからだとしたら、自分の感情や気持ちの機能面を疑いたくなる。感情が隠れて一向に自分へ戻って来ていないことに気付いている。喉の奥にはっきりしないもやもやがずっとあるのに、それを正しい言葉で外側に出すのが出来ないままだ。不安。まるで場面緘黙症みたい。

喉の奥にあるはっきりしないもやもやを無理矢理言葉に変えた、書き手の不確かな感情や理解できるはずのない感想を読んで一体何になるのだろう?でも、誰もが知っている様な、見たら解るような物事を、あえて模写して言葉にするほうが最も意味の無い事なのだろう。

旅行から帰ると私は感情のある文章を書きたいと思った。あまりにも感情や気持ちの機能が衰えている事に気付いて、不安になったからだ。現実にあるものを言葉にするのではなくて、形になっていない創作や想像といったもやもやを言葉にする事。想像画や創作画。それらの材料になる想像の風景や表現をまずは文章で書いてみる。そのあとそれらの想像を絵にしたい。

今回お手本にしたのは、
カポーティの「遠い声 遠い部屋」
美しい想像の風景(実在するものもあるかもしれない)が、言葉を使ってふんだんに描かれていると感じる小説の一つ。その中から好きな風景や比喩表現を抜き出して、その文章の雰囲気を汲んだ文章を自分で書く。一行目がカポーティで二行目が私、時間が余る程沢山ある。


乳白色の星のある黄色いとろんとした目
―幻想の魚が泳ぐ海の青さが歪んだ目

黒い渚に砕ける泡のように青黒く花みずきの咲き乱れる
―プールに浮かぶ死体みたいに硬直する冬の猫が喉を鳴らす

黄金色に脈を打っていた蛍
―灰色の煙を吐き出す水仙

夢の中のふしぎな断片のように思えた
―身体から引き離された誰かの指先

夏はほんとに不愉快
―夏はほんとに愉快

雨の日に部屋をひたす真珠のような光
―夏の部屋、割られた香水瓶からの残香

あまりにもたびたび神様に裏切られた
―あまりにも深く自分に傷付けられた

静かな真珠のような雪雲
―泣いた花の様な古書

死んだ小鳥が好き
―死んだ物だけを愛す事が出来る

衰弱した心臓のような鼓動
―呼吸が遠のく患者の瞬き

透きとおったくらげの肉
―濁る事の無い少女の標本

無花果の葉が濡れた風まじりの伝言
―扉の向こうから聴こえた足音の強張る怒り

一切の暴力の硬直した
―大きな真白い弾力性を抱えた

御影石のような目
―水に映る月のような炎

石や板のひそかな溜め息
―暗闇に浮かぶ粒子の囁き

われわれは沈んでいる
―誰かの夢へ続く井戸に落ちている

秋やすべての季節、思い出
ノルウェイの森とギター、悲しみ

思い出は実在の陸地でまた海
―過去は根のない花であり、一切の種を持たない

いかにも楽しそうに怠惰
―怠惰でいることが少年の幸福

末長くいのちの緊張に耐えられる
―緊張は長い間呼吸を押さえつける

孤独は熱病のように夜にはびこる
―寂しさは星の無い夜空を汚染していく

われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ
―「われわれが神や、魔法や、とにかく何かしらにすがりたくなるのも、結末を知りたいからなんだよ」

どんよりした奇妙に涼しい午後
―部屋全体がまるで僕の心みたいに、深く暗く異様に冷たく、奇妙に広い

仔猫の目のようなひどく青い空
―あの音楽の様にゆるやかな坂道

夢は翼のある復讐魚
―叶わない願望は毒のある睡眠薬

記憶が羽のように空気中に浮かんでいた
―身体のない鳥が翼だけで飛んでいた

苔の花の上に落ちた黒い星のよう
―頭の中にいる奇形の猫のよう

未来の全ては過去に存在する
―円術的な時間の中で過去だけが外れた所へ伸びていく

匂わしく花と開くいずれのこころ
―苦しげな花と呼吸を重ねた弱い心

愛こそは不変のもの
―不変のものは腐敗する事もない 始めから腐敗していない限り

眠りは死
コノテーションされる祈り

百合の花が泡を吹いている
―水辺の花が溺れた幻想を見ている

海のしぶきよりも細かく紡がれた指
―細い糸が幾重にも重なったように透き通る白い瞼に水滴が落ちる

心の挑戦的な表象
―身体の内側から棘が出て、心臓さえ貫いてしまう象徴

天国を、手の中にいもしない蝶のように握っている
―目に見えない蝶を未来の棺桶に忍ばせておく

朝は真っ白な未来を持った一枚の石版のよう
―「朝は、真っ白な未来を持った一枚の石版のよう」


世の中には美しい想像画に似た美しい言葉が沢山ある。翻訳されたカポーティの比喩表現や風景描写は、美しくて繊細で、なによりも上品で、涙が出るほど大好きだ。だからと言って生き続けたいとは思えない。死にたくないとは思うことも無い。弱い人間だから他人と何かしら繋がっていないと泣きそうになる。