ドッペル原画展

印象


私にも一応好きな空間というものが在る。それには人々が存在するべき場所としての空間と目に見えない存在としての空間の二種類があって、これからもっと種類は増えるかもしれない。


例えば私が好きな空間の一つは大学という場所だと思う。その空間の内側に在る、まるで春夏秋冬が一気に襲いかかってくるみたいな勢いの強い誰かの眼差しも好きだった。その眼差しは実際に目に見えて在る訳ではないけれど、しっかりと私の中で空間として活きている。勢いがあるけれど決して私を急かさず、でも時にはその眼差しが私に真実を伝える為の大切な合図になっている様な気がしていた。その眼差しを私が感じさえすれば存在は本物になって、鋭い黄金色の直線になった。直線が幾重にも重なって、私の頭上で複雑に絡まると、幾つかの空間が出来た。その直線は一つ一つ違った形の空間を創り出していて、教会のステンドグラスみたいに色が付いていた。とても綺麗で、嘘みたいに見える、そういう所が大好きだった。好きな理由には必ず目に見えない物が在ると思う。それも、恥ずかしくて人には言えない様なイメージや印象としての空間。

私が三四郎小宮の事を好きな理由の一つは、言葉の節々に芸人としての魂が籠められている事。後の9999個は目に見えないイメージや印象としての空間だと思う。猫が高円寺を闊歩していたら最終的に香港まで行ってしまった時のイメージや、口元だけ人間に変化出来なかった猫という印象がある。こんな事人には言えない。他人にイメージを持たれる事は気味が悪くて気持ちの悪い事、本当はイメージについて考えたくなんかない。


嫌いな理由にも必ず目に見えない物が在る。単に嫌いなのではなくて、それを見ると嫌なイメージが具体的に浮かんできてしまうから、より具体的に物事を嫌いになっていく。

TVのインタビューで、地震の事を
「暴力をふるってくる目覚まし時計みたい」
と言っていた男の子が忘れられない。

嫌いに対するイメージや印象としての空間
「丁寧な無視をする信号機みたい」
「まるで夏に無理矢理降る雹」
「包み紙の無いガム」
「針で刺されたままの瞼」
「バスタブに詰め込まれた枯葉」
「落し物を盗む機械」
「人工的廃墟のような偽物」
「勝手に停止する録画機能」
「思い出と作業の思い違い」
「霊感のある幽霊」
「内面にしか瞳が無い幼虫」

嫌いの種類はもっと沢山在る
私に対する嫌いなイメージや印象
誰かこっそり教えて欲しい

人魚


TVの中から聞こえる大きな歓声が苦手。
あの音は異常にうるさい、こちら側の安定をわざと掻き乱す様な悪意がある。こちら側が既に混乱している場合には更にその混乱を強めてくれる様な厚意もある。どちらにしても、TVの中から聞こえる大きな歓声の事が本当に好きじゃなくて、どこか遠くから小さく聴こえてくれば良いのにと思う。

歓声が聴こえてそんな風に思ったのは丁度録画していた舞台が終った瞬間で、それは相撲取りが相撲取りを土俵から落とした事によって興奮した他人の声の重なりだった。今のところ相撲には興味は無いけれど、いつの間にか予想外に相撲に興味を持つ事があるかもしれないと思って暫く画面を眺めていた。何でも良いから何かに興味を持ちたい。出来れば毎日その事しか考えられなくなるくらいに。もしかしたらその願いは恋愛が叶えてくれるのかもしれない。インターネットの中で、「好きな人の事だけ毎日考えてる」と仰っている方々をよく拝見する。

特に考えたくもなかったけれど、私は死んだらどうなるのか適当に考えなければならない事になった。相撲の前に見た舞台でそういう様な事を言っていたから。その舞台は実際に生でも見たのだけれど、TV越しだとやっぱり違っていた。生で見た時の感想を読むと自分で書いたくせによく分からなかった。

雑記 -

それでもこの日記からは舞台の設定が少し分かる。人間と人魚の死生観の違いの上に、死にたくないのに死んだ人の苦しみや、命が終わるまでの期間が描かれている舞台。


私は、生きたという事実だけを存在として扱って、その期間に過ごしてきた時間や場所はただの通過点としてすぐ忘れるべき物としてぞんざいに扱うかもしれない。生きたという事実だけが天国へ行き蘇る為の理由であると考える事しか出来ない。死ぬ事は人間の身体が無意味な塊へと戻る事だと思うけれど、とりあえずはその後その塊を置き去りにして、魂だけは何処かで続くと思っていたい。そう信じることで私の中には天国というスペースが創られていく。

それとは違い舞台の中の人魚は、死体に張り付いたまま残った「時間」の場所について考えている。私が通過点としてすぐに忘れる様な「過去」や「時間」こそが生きた証であり、いつまでも残ると考えていた。そういう風に、死体の周りでは時が流れ続けるという事は、不老不死である人魚にしか考えられない事だと思う。時間がなければ生きるという行為すら存在しない。生きている中で過ごしてきた時間は、いつも行き場を失くして彷徨っている。魂以上に魂らしく、あてもなくゆらゆらと時間だけが居場所を探しているのかと思うと、少しだけ今まで生きてきた事が無駄な事ではなかったのかもしれないと思うことが出来る。(これについてはまた今度)


舞台の中の時間は、塩となって海に溶けていた。その設定が私は何よりも好きだった。広すぎる海の中に行き場を失くして彷徨う時間が溶けていると想像すると、海はまるで自分の心臓みたいに偉大な物だと思った。 私にとっての海は、全ての諦観が身体に巻き付き、何かを信じていないとその諦観の重さで容易く海底に引き摺り込むというような恐ろしいイメージがあった。でもそれだけではなく、舞台の中で海の中に時間が溶けていくみたいに、何かを諦めた人間が海底に沈んでいく様子には一種の墓場の様な役割が見えると思った。

海底では、沢山の人が祈っていた。それは、戻りたいという祈りだったように思う。舞台の上で、塩で出来た時間は鱗になり、元の身体もしくは元の時間に戻りたいと祈る時に鱗が逆さになった。鱗=時間と考えてもいいかもしれない。その鱗が逆さになる時に「還っていく」という感じがした。例えば、地上で呼吸をしている自分がもうこれ以上生きられないと思った時に、海底で既に死んでいる自分の元へ還っていく風景。

少しずつ老いていくということは、少しずつ死へ戻っていく事だと思う。自分の死へ戻っていくその途中、生きた期間は海へ葬られていく、諦観や祈りと一緒に。

嘲笑


私がゆっくり書き続けた文章の中に、
毎晩瞼を閉じる事が出来ない病人がいる。

何時間か前にその病人が道端で倒れて病院に運ばれるのを見た。私はその時すごく悲しい気持ちだったのに、誰かと何年か前一緒に行った水族館の話をして無理矢理笑顔になっていた。その偽物の顔の瞳で倒れる病人を見ると、水族館の話があまり聞こえなくなった。こもった声が遠くから聞こえて、言葉として判別できない音が海の底から怒号のように鳴っていた。広告の、最初から薄い水色の部分に絵筆から滴る多くの水が垂れて、もはや水色は消えてしまった風景が浮かび、その手前で河豚の死骸が穏やかに溶けていた。時間を表す物が何一つない場所で河豚の死骸は徐々に無くなっていった。意志もなく、長さや経過も無く、溶けても溶けた事すら気付く理由も無かった。何にも気付く事の無い穏やかな所へ行きたいけれど、私の骨は動いているから、忙しなく、そして一向に止まることが出来ない。「あの時丁度地震が起こって、水族館の水槽全部割れちゃうかと思って。面白かったよね」という声が受話器から流れると、私の悲しい気持ちは悲しいというよりもやっぱりまた諦めのような物に変わって、何処へも動かなくなった。受話器の向こうに在る沢山の種類の悲しみや現実を嘲笑する冷たさに気付くと、私は穏やかな所で一時眠ることが出来た。まるで凍りついたみたいに、その場から一歩も動かなかった。それ以上何にも気付きたくなくて、少しの間溶けて死にたかった。受話器の向こう側で何かしらのCMの音が鳴って、この病人が自殺するまであと一年程の期間ある。その期間中何か変化があって自殺をせずに生き続けられる可能性は20%くらいしかないだろう、と医者は言った。私は医者に言われた事をしっかり覚えているけれど、書き続けなければならないのは病人が自分の事を病人だと気づいていない時の景色と呟いた言葉だけだと思った。此処では書き続けなければならない事に対してきまりを作ってないから、医者が言った事を忘れないように書き留めたいと思った。それと、私は誰かが言った言葉を非現実な所にいる存在しない人の台詞の様にして思い出す事が好きだと思った。

それから、病人は自分の病気に少しずつ気付いていけばいくほど命から呼吸が遠ざかっていく感じがあって、その動きに約一年かかるという事だった。その一年が終わる一番最後の時、一番端で、一番奥で、一番不安定な時に、呼吸と命が完全に離れてしまう感覚を、一番過敏に感じてしまう病気だった。完全に離れてしまう時以外にも呼吸が遠ざかっている動きを常に感じ、最後の瞬間に起こるであろう味わった事の無い感覚に怯えながら呼吸を続けている。知らない感覚を待ち続け、その感覚を初めて知った瞬間に死んでしまう。

医者は全体的に落ち着いていた。物事が他人のせいで上手く進まなくとも、上手く進まないせいで楽しみにしていた舞台や映画が診れなくとも、一切攻撃的な行為を働かないように常々自分を自分で監視しているような緊張感と正義感があった。でもそういう人間は私にとって、自分自身以外の何にも深い興味が無い人間と同じ種類の物だった。落ち着きがある人間は、落ち着きがあるのではなく、単に興味が無いだけで、そこには自制と無関心だけがある。そして自分自身が死ぬと分かった時、誰よりも異常に興奮し、取り乱し、幻覚を見る。

呼吸が少しずつ命から遠ざかっていくのは誰でも同じ事では無いのかと聞くと、医者は落ち着いた様子ではい、と言って「人間は誰にでも最初からそういう病気がありますが、それでも遠ざかっていく感覚に気づかないのが普通です。あの病人は、その遠ざかっていく感覚に気付いてしまう病気です。その感覚は本人以外誰にも分からない。でもきっと、頭がおかしくなってしまう程の恐怖を心理的に感じるでしょうし、身体的には常々止まらない動悸と早すぎる心臓の動きによる不眠、遠ざかる呼吸を取り戻そうとして奇声を挙げたり、肺に空気を入れる為の穴を自力で開けようとする、またはストレスによる自傷行為が目立ちます。そして何より恐ろしい程、生きる事に焦がれる。それはもう、まるで恋をしているみたいに。可哀想な病気ですよ。僕の呼吸も現に今遠ざかっているけれど、何も感じない。感じる事が出来ない身体で本当に良かった」


医者が病人を嘲笑してる様な気がした。でも私は何も言わなかった。医者の正義感に満ちた目線を感じると苦しいし、苛立ちでどうしても何かを壊さなくちゃいけない気分になる。何か言葉を発したらそれらの感情は更に膨れるだろうと思ったから、私はオストライヒベルファストを外で聴く為に突然立ち上がった。その突発的な行為に医者は驚き、飲もうとしていた紅茶を胸元に零した。見事に汚れた白衣を見て、私は困ったように笑った。

真白

 

AB型RHマイナスっぽい人
そういう人は大体絵に描かれる様な現実離れした眩しい黄緑色を好んで、その色のコートや自転車を所有している事が多いです。悩ましいのは、その色を積極的に好む人の事を私はどうしようもなく好きになってしまうという事が決まっているという事です。これは、予定説のように初めからあらかじめ決められています。その理由を聞かれても、そういう運命の星の下に生まれたとしか言えない。気付いたら私は黄緑色に反応せざるを得なくなっていたし、"黄緑色が好きというのが好きな理由なのではなく好きになった人は高確率で黄緑色を積極的に好んでいる"というその確率を正確に知る為に黄緑色に注視し、多くの人を知らなければならなくなった。

 

昔、好きだった人が筆箱を開いていたから少しだけ中を盗み見たら、MONOの消しゴム一つと同じ種類のシャープペンが四本入っていた、見事に全部黄緑色だった。同じ種類のシャープペンシルが四本も入っているという点に対して抑えきれないくらいの好意を抱かずにはいられなかった。私はバレンタインデーに真っ白なシャープペンをプレゼントしてその人が本当に嫌そうに筆箱にそれを入れるのを見た。一週間後に筆箱から真っ白なシャープペンが無くなっていたのに気付いてしまって、絶対的に大好きだと思った、でも転校したからもう会えない

 

道端で小学生が控えめなダンスをしながら控えめに鼻歌を歌っていた 揺れるランドセルに付けられたキーホルダーとその男の子の眼鏡の縁と小さな靴が黄緑色だった
それ以外は灰色だった
初めて買った補助輪付自転車も、
初めて買ったゲームボーイアドバンスSPも、 
初めて買った    も、
彼の幼少期はずっと黄緑色に囲まれていた

「どうして四本も同じシャープペンシルを入れているのか」と聞くと「とても気に入っているから、失くすのが怖い」と言って、その後平気で消しゴムは失くす

私は気に入っている物をいくつも所有していないと気が済まない不安の感じ方を全く知らない

緑のたぬきとコンビニで売っている塩おにぎりと少年ジャンプを抱えて急ぐ細すぎるサラリーマンが、それと同じ類の不安を感じて部屋に何体もお祭りバージョンの初音ミクを置いた。それでも不安で、全く同じ世界史の参考書を二十冊くらい重ねて椅子として使用している。それを見て私が不気味だと言うからもう一度「失くすのが怖い」と言う言葉が聞きたい。誰もいない仏壇だけの部屋に時々その声がこだまして、時々来る母が初音ミクのフィギュアを掃除する風景はもう見たくない

歴史の教科書に内容が増えていく
参考書もそれに対応しないと意味無いです
人に優しくなれる、黄緑色に執着すれば私は限られた人だけを大切に愛する事が出来る
でも、最近はもう色々多様化して大体の人が黄緑色の事を好きになってきているよね

寝室

誰の目にも留まる事の無い孤独
触れても壊れない孤独、強い孤独
生命力のある孤独、見られたい孤独
全部馬鹿にされてる

恥ずかしい、命日を忘れた
大切だった事を忘れてしまえばそれはただの忘れられた記憶になって、他の忘れた記憶の重なりから取り出せなくなる それが怖かったけれど今はそれ以上に全部忘れたい気持ちで一杯

誰の記憶にも残っていない自分の存在
私のせいでリストカットした女子の集団
枠や場所だけがいつまでもそこに残る
肝心な本人は誰も知らない場所で、
誰の目にも留まらない所で、
一人でるるぶ読んだ後に全部終わったって呟く
誰も居ない夜中のフードコートに忍び込んで
一人オセロやって全部終わったねって囁く

フードコートの窓から夜空を見ると、大きな雲があった 他の誰よりも知っていた人の顔に、ゆっくりとその雲が重なって、何も見えなくなる感じの重い雲の横に、眩しく光る星がある
いつ見ても同じ所にある
毎日変化無く光っていて色々と余裕ありそうでいいよね

月にも星にも興味ない
特別綺麗だと今更思わない
誰の目にも留まる事の無い孤独
誰の目にも決して留まる事が無い光
他の誰よりも知っていた筈の、
人の声が聴こえないし
もう早くお家帰りたい

命あるものは命無いものに敵わない
命無いものは命あるものに敵わない

どちらか一方にしか傾かない、
両極端過ぎる願い事が叶ったら
それはとても気持ちの悪い神話みたいな嘘

救心

 

風に吹かれてふわりと浮かんだ物が真っ白で綺麗な鳥に見えた、こんなに汚い駅の汚い線路の上にこんなに綺麗な白鳥がいてそれでこんなに優しく飛ぼうとするなんて、近寄って見ると誰かに捨てられたただのゴミ袋だった

ゴミ袋は乱暴に走ってきた電車に跳ねられて死んでる、いつも何かを考えるとき私は駅のホームとか電車の中にいる、それ以外の時何も考えられない、死にたくなる時以外何も考えられない

そろそろ目をなんとかしなければならない
最近相当目が悪い
最近相当目つきも悪いし
最近相当態度も悪い、
何もいい所ない、誰かの目を見るとその人の孤独が伝染るからそれを予防しようと心がけたら人の目を凝視する癖が直った その代わり画面越しに人の目を凝視する趣味が出来てしまった
物凄く卑猥な猫、
物凄く卑猥な猫の目みたいな人間の目

いつも思ってたけど、何も凄くない
人は誰かとじゃなくてたった一人きりで孤独に戦わなきゃいけないはずだし、誰かと協力する事は辞めなきゃいけない、協調性という物を今すぐ跡形もなく殺して誰かと何かの命を創り出す事を辞めなきゃいけない

何かに誰かに騙されて無理矢理悲しむ人
あなた達には何の美しさもない、どんなに必死になったって、風に吹かれて浮かんだゴミが真っ白な鳥に見える

光國

 

遠藤周作の「海と毒薬」九州の病院でアメリカ人捕虜の生体解剖という忌まわしい事件を細部に描いていた。日本人がアメリカ人を捕虜にして解剖したという事件において、日本人のいかなる精神性、論理的な心理がどのように働きかけたのか、そして日本人とは一体いかなる人間なのかという意味を深める小説。

この事件の背景に人間の精神性を考える時には、常に神の影があって、神の有無を考える事になる。「アメリカ人捕虜の生体位解剖」という実際にあった事件をテーマに、存在しない人物像を描く事で現実と虚構を混ぜ合わせたような雰囲気が作品から感じられた。その雰囲気からも「神」という存在が、実際に現実の中で信じられているのか、それとも「神」は存在しないのかという二極の思想が対立していた。

第二章裁かれる人々の「医学生」という話では、戸田という男が、アメリカ人捕虜の生体解剖に参加する事を決めるまでの彼の精神形成について描かれている。戸田が数々の“悪さ”を幼い頃からはたらいてきた経験によって、他人の死や他人の苦しみに無感情になった事は、アメリカ人捕虜の生体解剖に参加する事を決めた大きな引き金となっていた。

“神に与えられる罰”についてもこの章で描かれている。空襲の後に聞こえる声を聞き戸田自身が今まで感じてこなかった"罰"と向き合う事になった場面では、私自身も戸田のように今まで親に迷惑をかけた事やちょっとした悪さを思い出し、こうむる罰に怯える気分になる。この作品を読んでいるうちに強く浮かび上がってきたものは“罪”や"罰"という存在についてだった。

イエスを恐れるということは、自分に降りかかるであろう罰に向き合うことでもあるが、イエスを信じない人間に降りかかる罰の意味は一体何なのだろうか。それはおそらく、社会的な・世間的な罰であり、自分自身の良心に対しての物ではない。「他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感じず、それが除かれれば恐れも消える」という戸田の言葉からも、戸田が恐れているのは、イエスではなく社会の眼だけだったのだと想像出来る。

例えば、世界に生きているのが自分一人だったとする。その世界で何か悪いことを行っても、私は罪を恐れないかもしれない。周りの目がなければ、社会というまとまりがなければ、私は罪を犯しても誰にも咎められることはないし、自分の立場が汚されると思う事ができない。これは戸田と同じ感覚で、そんな感情を持つ自分に気付くと同時に「あなたは神様を恐れないのですか」というヒルダ夫人の声が聞こえる。その声は、私の耳に深く残った。しかしその声が聞こえたからと言って、私にはどうすることも出来ないように思ってしまう。私は神に背くほどの大きな罪を行っていないと思っているからだ。海と毒薬において、考えたいのは“罪”の存在だけでなく、“罪の大きさ”でもある。この作品の人物達は人の命を奪ったのだ。命を奪った罪と、私が母についた小さな嘘の罪では、「罪の比重や相手から奪う物の重みが違う」と考えてしまう。その思いに対して「『罪は罪』であり、どんな罪においても神を恐れなければならない」とヒルダ夫人なら言うだろうと想像する。しかし、私はこれからも小さな嘘や小さな罪を犯しながら生きていくのだろう。ヒルダ夫人のように、何かを恐れその恐れを逃れるために自分を犠牲にはできない。けれども私は神に祈り、愛が注がれ救われるだろうと信じ続ける事ならば出来ると思う。

そして、もう一つ重要な役割となるものは「黒い海」の存在。佐伯彰一氏の解説によると、「黒い海」という存在は、人間を「自然に押し流す」ものであり、それは運命という自然力であった。そこから「自由にしてくれる」ものが神であるとすれば、「黒い海」という存在は、人間を論理的・宗教的な責任でしばると同時に自由を与えてくれる「神」不在の、異教的な風土の集約的な象徴であるという事が、遠藤の言いたかった事なのだ。

芥川龍之介が書いた小説に「蜘蛛の糸」という作品がある。この作品は、釈迦が極楽を散歩中に蓮池を通し下の地獄を覗き見にくる所から始まる。そして、その地獄の中にカンダタという男を見つける。「カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった」と思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めたが、ふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてきたため、このままでは糸が切れると思い下りろと喚いた。そうすると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまったという話だ。無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去ったのである。

この作品の中にある「地獄」はまさに「黒い海」であり、その場から「自由にしてくれる」ものこそが、「蜘蛛の糸」である。そして、両作品にある「罪」という存在は、自らを黒い海に、そして地獄の中に縛り付けるものだ。「神の不在」が蔓延した場所に留まる事(縛り付けられる事)によって、人々は“罪”を起こしても不感になり、アメリカ人捕虜の生体解剖という事件を起こしたのではないかと考えられる。カンダタが罪の万延した地獄の中で再び罪を起こしてしまったのも、“罪”の重さや浅ましさに不感になっているからなのではないだろうか。海と毒薬の中で生人々が生体解剖という行為をしてしまったのも、それぞれの登場人物が抱える万延した罪の意識や多数の命が失われる時代の中に留まっていた事が一つの原因にもなり得る。

一方で、海と毒薬が発表された後に、「結局は『なんでもない人間をこんな犯罪に走らせたのは戦争である。憎むべきは戦争である』という見方が、この種の事件を見る日本人の見方として定着していった」(なだいなだ氏「生体解剖」解説より)という意見もある。しかし、私はこの“戦争”は人間が持つ罪に対する不感や、全てへの諦観、そして神の不在を確認する一つの“きっかけ”に過ぎなかったのではないかと考える。遠藤が「神の不在」を表現するために題材としたのが“戦争”であったのであり、決して現実の世界で起きた戦争によって「人々は精神を狂わせ、罪への意識も持てなくなった」という流れがあるわけではない。此処には、日本人が元来持っている日本的感性と、神はいるのか、いないのかという一つの問いがある。平野謙氏は「作者は罰を恐れながらも罪を恐れない日本人の修正がどこに由来しているかを問いただすために、生体解剖という異常事件を一つの枠組みに利用した形跡がある」と述べており、作者の意図が生体解剖事件そのものへの関心というより、もっと普遍的な人間存在の「罪と罰」への問いにあることは明らかであると言う。つまり、川島秀一氏の「遠藤周作 <和解> の物語」にあるように、「日本的感性が孕む虚無」と「神の不在」こそが、遠藤周作の書こうとした真意なのだと思う。

この「神の不在」こそ、現代に蔓延している日本的感性であり、その虚無さを海と照らし合せて作品にした点に感銘を受けた。このような“虚無の中に生きる”姿は、“東洋的諦観”に似ているところがある。この生き方は、いかなる抵抗も距離も感じず、宇宙や自然に身を任せたいという「吸収へのあこがれ」であり、「自我意識の喪失」にかわるものであるが、”宇宙や自然に身を任せる”という点は、この作品に於ける”海へのイメージ”に共通する。自然に身を任せ、流れのまま時を過ごすという生き方は、時にイエスを信じながら時を待つ行為になり得るが、罪を犯し、罪を恐れながら神不在の場でたゆたうだけの不自由な場にもなり得るのではないのだろうか。

“流れるままに過ごす”という行為おいて、大切なのは、自分が何を信じ、何を恥じるのかであるように思う。この作品の中に存在にしたキリスト教徒であるドイツ人のヒルダ夫人のように、どんな時代であっても、信じられるものがあれば世界の捉え方は変わってくるのだろう。

私は自分自身を信じて今まで生きてきたが、時々「成るように成る」と投げやりに日々を過ごしてきたことがあった。そして私は、自分が持つ「成るように成る」という感情について海と毒薬を読む前は肯定的な意見を持っていた。というのも「成るように成る」と考えることは、イエスキリストを信じる事と同じであると思っていたから。与えられる物事を静かに受け入れ、開かれたドアに招かれる生き方に私は憧れていた。

しかし、それはただ広大な海のような場所で、ただたゆたっているだけなのだと気付いた。自分がいる位置で、何もせずに浮かんでいてもどこにも行きつかない。一歩踏み出さない限り、神様は選択肢もドアも与えてくれない。海と毒薬の中に生きる人たちのように、永遠に、神不在の黒い海のような所に止まってしまう。私はどこかに向かうために、一歩踏み出す勇気を持ちたいと強く思った。