ドッペル原画展

水脈

 

 

病院の中庭で眼前に座る主治医は、白衣の下に何かの英文が羅列されたTシャツを着ていた。脱いだとき文字を追うと一瞬でカートコバーンの遺書だと解った。私は何かを食べたくなるとそれを読み返す習慣があったからだった。私達はどちらもかなりセンスがないと思った。生活ほど不潔さを齎すものは中々無い。全てを委ねたくなる程に大きな達観は恐ろしく、私の最期まで見透かしているであろう全能感は暴力的とも捉えられ、それはとても心地が良い。聖書らしい雰囲気の喫茶店で飲んだコーヒーの香りは黒く濁り、揺れる深淵の景色をくだらないものとして認識している虚ろなその目で観察されると身体は硬直し、全てを委ねても良いような、むしろそうしなくては許されないような錯覚に陥る。それはまるで神のようだと、盲目な人間は崇拝する。

どれだけ繊細で美しい風景を好んだ昔の詩人でも、平常な睡眠や呼吸を繰り返される生命によって削がれたら、殺意や憎悪や嫉妬などが芽生えるのか考えていた。ベッドの上で読書をする私は脱力している。そんな事を考えてしまった感情を恥じて、事実を見えないところに隠そうとする。それでも本当は、殺したい感情を美しい言葉と韻律だけで、それ以上の感情の強さを以てして表現したいと思っている。そうやって人生のバグを一つずつ直していく。治していく、治していく、治していく、直していく、直ったはいいものの、おそらくその後遺症に飲み込まれ、自分で紡いだ言葉に殺されそうになるのだろう。どうやら幸せを感じる脳の装置が壊れているらしい。否、そんなはずはない。

「幸せそうな君に価値があると思ってる?」

それが彼の口癖だった。それは神というよりも、その対極にある人間の、人間ですらないものの言葉であるのだろうか。しかし私はそれすらどうでも良いと思う。人間ですらない、などと、そんなくだらないことを考えてしまったのがとても恥ずかしく、弱い人間になった気がしている。

―私は何もかもから置いていかれている気がする。

僕達は席を立って喫茶店のドアを開けた、雨が降っていて傘が無かった。私達はいつの間にか病院を抜け出し日常に呑み込まれている。豪雨の中傘もささず私を追う恥はあるのか問いかけたい。臆病で退屈な主治医は私を治せはしない、あるいは殺せはしない。濡れたら透ける他人の遺書が、それはすなわち私に対して何かを「祈って」いるということであるならば、私こそ、今、別の場所にあたらしい神を探そうとするべきである。路地の裏で冷える水溜りに、歪んだ線を弾く指の灯に、奇妙に笑う口元の角度に、届かない町の穢れた景色に、私は尚も深い安らぎを何処かに求めている。

一番”感じ”の悪い寂れたラブホテルに1人で泊まる。隣のクラブの音が反響して眠れない、雨の音さえ聞こえない。もともと雨など降っていなかったのだろう。部屋にも街に何処にも傘は見当たらないのだから。据えた匂い、地下室、空気の汚染、知らない幸せ。

何も過ぎていないはずなのに画面の中の日付が変わっている事が多い。点滴が身体から抜けきっていないみたいな気怠さがいつまでもいつまでも続いている。そのまま頭上に水槽があるライブハウスへ向かう。間違いだらけの人生でも、これを観れる時代に産まれてきたことは正しかったと思える。

 

最近鑑賞したもの↓

関心領 域:映画だけど音楽聴いてる気分になった。単館で見たせいかダイレクトに恐怖感が襲いかかり、その後のかなり大事な予定を根こそぎ忘却し死にたくなりました。

ナ ミビアの砂漠:共感性羞恥について理解しました。

田園の憂鬱

滅ぼす:上巻は退屈で全体的に見れば面白い

死神 田中慎 弥

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生きたいと死にたいを往来しすぎて、いまどちら側にいるのか分からなくなる。ひとは結局何も変わらない、したこともされたこともなにも消えることがない、赦したいのか傷付けたいのかそれすら選べず、私はすべてを海に棄てるほど優しくはなれない。