ドッペル原画展

寄光

 

「パラサイト 半地下の家族」を映画館で一度見た後、もう一度地上波で、その後Netflixでモノクロバージョンを見た。

何度見ても「ギテク(父親)が無意識にも殺意を持った瞬間」に一番興味を引かれる。私にとってあの瞬間が全ての現れであり、象徴であるからだ。また、父親だけでなくギウ(息子)もそれと同様の気持ちを抱える瞬間も有った。その際に使われるのが山水景石だ。それは、財運を向上させるパワーストーンのようなものである。「美しいはずの象徴が凶器に変わる瞬間」にもまた強く興味を引かれた。初めはキム家(半地下の家族)にとって、パク家(豪邸に住む家族)は神様の様な存在であったと言えよう。彼らは神様を山水景石と同じように崇拝していた。就職先もお金も与えられ地下から引き上げてくれた存在であるからだ。しかし、その思想が突然にも、あるいはふつふつと、憎悪に変わっていく。

つまり、何が彼らを変えたのか、何故変わってしまったのか、について考えることがパラサイトについてより深く考える為の一つの手法だと私は思うのだ。

まず、この映画は社会派と言えるだろう。階段を下がり映像が下に行くにつれ下流階級、階段を上がり映像が上に行くにつれ上流階級の人間が映し出される。雨の日にも庭に居るドソンは先住民であり上流にも下流にも当てはまらない存在だろう。それらの階級はまるで光と影のように映し出される。光と影はモノクロバージョンで見ても感じられたのだから映像として素晴らしい。それぞれの階級に合ったそれぞれの生活が映し出される様は、まるで社会の縮図を見ているようである。誰もがその階級に見合った「フリ」「演技」をしているようにさえ見えた。特に、キム家の地域では大雨被害が起き被災しているのに、パク家では呑気に誕生日パーティーを開く様子はあまりにも対象的であった。同じ世界に生きているはずなのに、こんなにも違う日常を送っている。それはパク家・キム家両者において紛れもない事実なのだ。

そして事件はパーティーで起こる。ギテクがドンイクを刺してしまうのだが、それは臭いを嗅いで嫌な顔をしたというコメディ的要素が直截的な原因ではないだろう。正反対の環境、正反対の暮らし、正反対の日常、それらを含めた全てが無意識の差別であるからだ。光と影が同時に存在する瞬間、ずっと信仰していた神様が、自分の存在を受け入れていない(受け入れられない)事実を目のあたりにした。あるいは、信仰する「フリ」をしていただけの神様に自分の存在を否定された。差別され、否定され、陽のあたる世界から弾かれる影の気持ちを、半地下の家族は恐らくずっと感じていた訳である。「半地下の人間はどこまでいっても、どう頑張っても半地下の人間なのだ」という神からのお告げに反発し、影で光を覆う様に、ギテクはそれをかき消すのだ。この、事実に対する反発心というのがギテクの心に芽生えた殺意だったのではないだろうか。

加えて、彼らを見ていて思ったのは、才能が有るのにそれを上手く活かせる場所が用意されていない不自由さだった。キム家は皆それぞれの得意分野を持っている。持っているからこそ、そのアイデンティティを(嘘をついた偽物であったが)活かせたのだ。しかし才能があっても本質的には半地下の人間である。ギウは結局自分は自分であることから逃げ、同じ人種であるグンセを殺し、自分も死のうと考える。富と名声の象徴である山水景石を使おうと思ったのは、それらに対する嘲笑であるのではないだろうか?富や名声など綺麗な物ではなく、僕にとっては凶器にしかなり得ない。つまり、富や名声には勝てないということなのだ。本映画の中で彼はそれらを手に入れる側ではなく、それらに潰されてしまう側であった。どんなに手に入れたくても手に入れるまでの努力だけで力尽きてしまう、頑張れば頑張るほど光の遠さを思い知らされる。そんな恐ろしい存在がいつまでも彼から呪いのように離れなかった。持たざるものにとって、富や名声、それらは呪いでしかない。美しさでも何でもなく、彼らの存在を否定する凶器なのだ。

それでは、本映画はどれだけ頑張っても報われないものは報われないということを伝えたかったのだろうか?どこまでいっても半地下の人間は半地下の人間でしか無いと言いたかったのだろうか?いや、そうではない。私は、光へ向かおうとする時、何かを他人から奪うのではなく、自ら作り出す正しさを伝えているように感じた。ギテクの様に、目の前の現実をかき消すのではなく、受け入れ、光へ自ら登っていく。最後のシーンで、これからの「計画」を語るギウは事件を通して、自ら光を作り出そうとしている。これから富や名声を築き、家を買い、また家族三人で暮らす事を夢見ている。それがどんな理由であれ、彼の人間的成長と言えるのではないだろうか?

そして、さらに映画が訴えかけて来たのは、キヴが計画する最後のシーンを見て「こんなの夢物語に過ぎない」と思った視聴者に対する嘲笑である。何人かの視聴者は無意識にも、彼の環境から、将来の可能性/不可能性をジャッチしてしまったのではないだろうか。私もその中の一人である。世の中に溢れる無意識の選別がどれだけ多くの人間を傷つけているのか。差別にもなり得るその構図は社会全体に通ずる事であり、あらゆる場面で無意識を意識的に直していく必要があるのではないだろうか。いかなる存在であっても否定する社会であってはならないことを、思い知らされるのだ。

映画館で見たときは、社会の層に沿って頑張っても報われないこともあるのだとやりきれない気持ちになったが、二度目に観ると希望が描かれているようにも思えた。私は自ら光を作りだせるだろうか?誰からも何も奪わず、また奪いたいとさえ思わぬ心を持てるだろか?それは難しいことなのかもしれないが、光を望むことは、誰しもが出来ることなのだ。