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ドッペル原画展

光國

 

遠藤周作の「海と毒薬」九州の病院でアメリカ人捕虜の生体解剖という忌まわしい事件を細部に描いていた。日本人がアメリカ人を捕虜にして解剖したという事件において、日本人のいかなる精神性、論理的な心理がどのように働きかけたのか、そして日本人とは一体いかなる人間なのかという意味を深める小説。

この事件の背景に人間の精神性を考える時には、常に神の影があって、神の有無を考える事になる。「アメリカ人捕虜の生体位解剖」という実際にあった事件をテーマに、存在しない人物像を描く事で現実と虚構を混ぜ合わせたような雰囲気が作品から感じられた。その雰囲気からも「神」という存在が、実際に現実の中で信じられているのか、それとも「神」は存在しないのかという二極の思想が対立していた。

第二章裁かれる人々の「医学生」という話では、戸田という男が、アメリカ人捕虜の生体解剖に参加する事を決めるまでの彼の精神形成について描かれている。戸田が数々の“悪さ”を幼い頃からはたらいてきた経験によって、他人の死や他人の苦しみに無感情になった事は、アメリカ人捕虜の生体解剖に参加する事を決めた大きな引き金となっていた。

“神に与えられる罰”についてもこの章で描かれている。空襲の後に聞こえる声を聞き戸田自身が今まで感じてこなかった"罰"と向き合う事になった場面では、私自身も戸田のように今まで親に迷惑をかけた事やちょっとした悪さを思い出し、こうむる罰に怯える気分になる。この作品を読んでいるうちに強く浮かび上がってきたものは“罪”や"罰"という存在についてだった。

イエスを恐れるということは、自分に降りかかるであろう罰に向き合うことでもあるが、イエスを信じない人間に降りかかる罰の意味は一体何なのだろうか。それはおそらく、社会的な・世間的な罰であり、自分自身の良心に対しての物ではない。「他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感じず、それが除かれれば恐れも消える」という戸田の言葉からも、戸田が恐れているのは、イエスではなく社会の眼だけだったのだと想像出来る。

例えば、世界に生きているのが自分一人だったとする。その世界で何か悪いことを行っても、私は罪を恐れないかもしれない。周りの目がなければ、社会というまとまりがなければ、私は罪を犯しても誰にも咎められることはないし、自分の立場が汚されると思う事ができない。これは戸田と同じ感覚で、そんな感情を持つ自分に気付くと同時に「あなたは神様を恐れないのですか」というヒルダ夫人の声が聞こえる。その声は、私の耳に深く残った。しかしその声が聞こえたからと言って、私にはどうすることも出来ないように思ってしまう。私は神に背くほどの大きな罪を行っていないと思っているからだ。海と毒薬において、考えたいのは“罪”の存在だけでなく、“罪の大きさ”でもある。この作品の人物達は人の命を奪ったのだ。命を奪った罪と、私が母についた小さな嘘の罪では、「罪の比重や相手から奪う物の重みが違う」と考えてしまう。その思いに対して「『罪は罪』であり、どんな罪においても神を恐れなければならない」とヒルダ夫人なら言うだろうと想像する。しかし、私はこれからも小さな嘘や小さな罪を犯しながら生きていくのだろう。ヒルダ夫人のように、何かを恐れその恐れを逃れるために自分を犠牲にはできない。けれども私は神に祈り、愛が注がれ救われるだろうと信じ続ける事ならば出来ると思う。

そして、もう一つ重要な役割となるものは「黒い海」の存在。佐伯彰一氏の解説によると、「黒い海」という存在は、人間を「自然に押し流す」ものであり、それは運命という自然力であった。そこから「自由にしてくれる」ものが神であるとすれば、「黒い海」という存在は、人間を論理的・宗教的な責任でしばると同時に自由を与えてくれる「神」不在の、異教的な風土の集約的な象徴であるという事が、遠藤の言いたかった事なのだ。

芥川龍之介が書いた小説に「蜘蛛の糸」という作品がある。この作品は、釈迦が極楽を散歩中に蓮池を通し下の地獄を覗き見にくる所から始まる。そして、その地獄の中にカンダタという男を見つける。「カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった」と思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めたが、ふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてきたため、このままでは糸が切れると思い下りろと喚いた。そうすると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまったという話だ。無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去ったのである。

この作品の中にある「地獄」はまさに「黒い海」であり、その場から「自由にしてくれる」ものこそが、「蜘蛛の糸」である。そして、両作品にある「罪」という存在は、自らを黒い海に、そして地獄の中に縛り付けるものだ。「神の不在」が蔓延した場所に留まる事(縛り付けられる事)によって、人々は“罪”を起こしても不感になり、アメリカ人捕虜の生体解剖という事件を起こしたのではないかと考えられる。カンダタが罪の万延した地獄の中で再び罪を起こしてしまったのも、“罪”の重さや浅ましさに不感になっているからなのではないだろうか。海と毒薬の中で生人々が生体解剖という行為をしてしまったのも、それぞれの登場人物が抱える万延した罪の意識や多数の命が失われる時代の中に留まっていた事が一つの原因にもなり得る。

一方で、海と毒薬が発表された後に、「結局は『なんでもない人間をこんな犯罪に走らせたのは戦争である。憎むべきは戦争である』という見方が、この種の事件を見る日本人の見方として定着していった」(なだいなだ氏「生体解剖」解説より)という意見もある。しかし、私はこの“戦争”は人間が持つ罪に対する不感や、全てへの諦観、そして神の不在を確認する一つの“きっかけ”に過ぎなかったのではないかと考える。遠藤が「神の不在」を表現するために題材としたのが“戦争”であったのであり、決して現実の世界で起きた戦争によって「人々は精神を狂わせ、罪への意識も持てなくなった」という流れがあるわけではない。此処には、日本人が元来持っている日本的感性と、神はいるのか、いないのかという一つの問いがある。平野謙氏は「作者は罰を恐れながらも罪を恐れない日本人の修正がどこに由来しているかを問いただすために、生体解剖という異常事件を一つの枠組みに利用した形跡がある」と述べており、作者の意図が生体解剖事件そのものへの関心というより、もっと普遍的な人間存在の「罪と罰」への問いにあることは明らかであると言う。つまり、川島秀一氏の「遠藤周作 <和解> の物語」にあるように、「日本的感性が孕む虚無」と「神の不在」こそが、遠藤周作の書こうとした真意なのだと思う。

この「神の不在」こそ、現代に蔓延している日本的感性であり、その虚無さを海と照らし合せて作品にした点に感銘を受けた。このような“虚無の中に生きる”姿は、“東洋的諦観”に似ているところがある。この生き方は、いかなる抵抗も距離も感じず、宇宙や自然に身を任せたいという「吸収へのあこがれ」であり、「自我意識の喪失」にかわるものであるが、”宇宙や自然に身を任せる”という点は、この作品に於ける”海へのイメージ”に共通する。自然に身を任せ、流れのまま時を過ごすという生き方は、時にイエスを信じながら時を待つ行為になり得るが、罪を犯し、罪を恐れながら神不在の場でたゆたうだけの不自由な場にもなり得るのではないのだろうか。

“流れるままに過ごす”という行為おいて、大切なのは、自分が何を信じ、何を恥じるのかであるように思う。この作品の中に存在にしたキリスト教徒であるドイツ人のヒルダ夫人のように、どんな時代であっても、信じられるものがあれば世界の捉え方は変わってくるのだろう。

私は自分自身を信じて今まで生きてきたが、時々「成るように成る」と投げやりに日々を過ごしてきたことがあった。そして私は、自分が持つ「成るように成る」という感情について海と毒薬を読む前は肯定的な意見を持っていた。というのも「成るように成る」と考えることは、イエスキリストを信じる事と同じであると思っていたから。与えられる物事を静かに受け入れ、開かれたドアに招かれる生き方に私は憧れていた。

しかし、それはただ広大な海のような場所で、ただたゆたっているだけなのだと気付いた。自分がいる位置で、何もせずに浮かんでいてもどこにも行きつかない。一歩踏み出さない限り、神様は選択肢もドアも与えてくれない。海と毒薬の中に生きる人たちのように、永遠に、神不在の黒い海のような所に止まってしまう。私はどこかに向かうために、一歩踏み出す勇気を持ちたいと強く思った。