ドッペル原画展

海底

 

朝、教室に行くと、机の上に大きな貝殻が置いてあったことがあった。誰よりも早く登校する私は、それが何処から来たのか分からなかった。一人きりの教室で貝殻に耳を当ててみると、遠くの海の音が聴こえた。「あなたの海を考えていると此処とは違う場所に行ってしまいそうになるよ」という歌詞は私が大人になってから知った歌詞だが、教室の中一人で海の音を聴いていた自分に捧げたいと思う。貝殻を持ち帰り、何度も耳に当て、音を聴いた。次第に私はそれを小さな海だと思うようになった。私だけの小さな海。誰が机の上に用意してくれたんだろう?答えを知る前に私は転校し、沢山の別れだけを経験して、何も残らないまま大人になった。

 

変な時間に眠ってしまった後、早朝なのか夕方なのか分からない部屋の色をしばらく眺めていた。海に沈んでいくのか、空に浮かんでいくのか見分けがつかないような気持ちになった。この感覚になる事が良くある。その時、不安になるときもあれば、心地よくなるときもある。全ては体調次第なのだ。当たり前だけれど。今、体調が悪い気がするのはどうしてだろうか。昨日の夜は、誰も話さない沈黙の電車内に居た。何処かへ向かう途中なのか、あるいは何処かへ帰る途中なのかを、お互い知り得なかった時間は、とても無駄だと思った。花が枯れていくのは分かる。でも、私は人が好きなのか嫌いなのか分からない。私は今まで生きてきて、基本的に何の意味も無かった気がする。それは、思い出の有無や出会いの有無ではなく、心の中に居る自分だけの神様に、顔向け出来る事を何も出来なかった。というような意味合いである。やっぱり私には何も残っていない。 

時々、誰かが置いてくれたあの貝の事を考える。それももう今は手元に残っていない。引っ越しの作業の合間にきっと捨てられてしまったのだろう。もし、今その貝殻が此処に有ったとしたら、私は静かに耳をぴたりと寄せ、音を聴こうとする。でもきっと何も聴こえない。

最近夏が来たと思う。海に行って本物の海の音を聴くのはどうだろうか?自然の生音を聴くのも良いかもしれない。そう思うと、心の中の神様が、辞めておいた方がいいのでは、と言う。今、私の小さな海は、心の中に神様として現れている。

私は太陽が苦手なのだ。海の焼けるように熱い砂浜や、恐怖さえ感じる程大きく何処までも広がっている深い深い深い海。波、人々の騒ぎ声、夏。夏、夏。

耐え難い夏がやってきてしまった。

そう思ったのも少しの期間だけで、いつの間にかこの文章を書いている間に寒くなった。私の好きな季節だ。周囲の人への愛も、大きくなる季節。