ドッペル原画展

永遠

 

映画のチケットを買ったその日から、今まで経験したことの無い程心の底から「まだ死にたくない、まだ死ぬわけにはいけない、何がなんでも生きなくては」と思った。私はここ最近、死にたいという気持ちを一切排除し、ただ強く生きたいと願うことが出来る奇跡的な人間になっていたのだ。そうだ、死ぬわけにはいかない。『シン・エヴァンゲリオン』を観るまでは。そして必死の思いで生き延び、無事にシンエヴァンゲリオンを看取ることが出来ました。本当に良かった。

私は死にたくないと祈り初めたその日から、貪る様にエヴァンゲリオンシリーズを見返した。簡単に纏めると、

TV:誰とも一つになれなくて「おめでとう」
旧劇:(Air)人類補完計画を拒否/(death)カヲルを殺す
序:NERV入団 綾波に「笑えばいいと思うよ」
破:アスカが使徒綾波を取り戻そうとしたシンジがサードインパクトのトリガーに
Q:破から14年後 NERVとの対立 再びサードインパクトの続きを思いがけず起こしてしまうシンジ

という感じである。映画が始まる前のプロローグと大体同じだった。

TVシリーズAirでは人類補完計画を拒否したものの、父との対立や他者への恐怖は拭えていないままだった(最後にアスカの首を締めるシーンから)。(death)では、友人であるカヲルを自らの手で殺し、世界の破滅を防ぐ結末を描いていた。何かを犠牲にし、誰かを傷付ける事を「選ぶしかなかった」シンジの未熟を感じた。そして、劇場版ではそれとは相対的に、アスカを救うことも殺すことも、何も「選べなかった」シンジの未熟さを感じた。シンエヴァはそのどちらでもなく、それらを繰り返すことなく、本当の意味で、エヴァンゲリオンによる争いが消えた別の世界で終わりを迎えている。

虚構/現実の対話

人間との関わり方には「個対個」「個対多」「多対多」というあらゆる関係性の構築が見込める訳だが、それぞれの関係性についてを深く考え過ぎると混乱することが私にはよくある。いっそ、関係性の無い世界に籠りたい、楽になりたいと。その厭世的かつ諦観的思考を代表したかのように、ゲンドウは「対」の無い世界を目指していた。海と毒薬でも、「諦観=海に葬られる」という様なイメージがあるが、人類補完計画で人類が一つになる様は、命が溶け、海に葬られるそれと一致するイメージだ。しかし、自分の存在と他者の存在を同一にし、全体そのものになることは、誰も傷つくことはないが、そもそも自分が居ないのだから「傷付かない」という概念すら無い。だからこそ、「個対個」でいることをシンジは選ぶ。誰かと一つになったところで、他者との関わりがなければ何も育まれることはない。他者と関わることでこそ、自分の存在は確立し、相手の存在も認識できるという当たり前の事がどれだけ大事なのかと言うことだ。それが現実を生きることであり、それに気付くのが虚構から抜け出す唯一の方法である。首輪の様に自分を締め付けていた呪縛から溶ける時、彼は現実に目を覚ましたのだと思った。「夢は現実の続きにあって、現実の続きは夢の終わりだ」と綾波Airで語っていたが、全くその通りである。夢を見るには、まず現実に帰らなければならないのだ。現実では無いところで見るそれは、夢ではなく虚構である(現実の埋め合わせでしかない)。夢=現実(夢の終わり)の続きだ。虚構の終わりはそんな自分の心にある暗い部分からの脱却であり、エヴァンゲリオンはその心の回帰を描いた作品でもあったのだと思う。

回帰と確立

シンジはこれまでのエヴァンゲリオンで、どんな結果であろうとも、自分の「個」に回帰するまでは出来ていたように思う。でもその先の成長を、シンエヴァで初めて実現出来た気がする。一つになるのを辞めるだけでなく、その先の世界を創る。「エヴァに乗るしか僕の存在理由は無い」と思っていたシンジが、「エヴァの無い世界にしたい」と祈るとは思いもせず、涙が溢れた。その祈りは、一種の強迫的依存から離れられる強さの誇りでもあり、何かに頼らなくても、何かに縋らなくても、立っていられるシンジの「個」が確立した事がとても嬉しく、そしてもうバカシンジを観ることが出来ないと思うとかなり哀しく、号泣した。しかし、その一つの成長を観終えた後には、とても心がすっきりした。様々な確執や憎悪、手に負えなくなった自尊心や承認欲求の「浄化」と言ったらあまりにも簡単だが、それらに執着せずとも、自分を保っていられる輪郭を手に入れたのだと分かったからだ。自分よりも仲間を大切に思い、ずっと忘れないと愛を持って世界を変えたシンジ君に合掌。

 

追記

二回目を見に行きました。Air綾波が言っていた言葉は「夢=現実の続き、夢終わり=現実」ではなく「現実の続き→夢→夢の終わり→現実」の可能性も考えられる事に気付いた。エヴァンゲリオンは現実と夢がリピートしていく世界で、夢を終わらせ、現実を直視する勇気を持つ話なのかもしれないと。そして、上記に書いた大まかな解釈の他にも、面白い設定や表現がまだまだ沢山有った。というわけで、もう一度見たい。また絶対に死にたくないと思う日々が続くかもしれない。エヴァンゲリオンは永遠です。

 

 

寄光

 

「パラサイト 半地下の家族」を映画館で一度見た後、もう一度地上波で、その後Netflixでモノクロバージョンを見た。

何度見ても「ギテク(父親)が無意識にも殺意を持った瞬間」に一番興味を引かれる。私にとってあの瞬間が全ての現れであり、象徴であるからだ。また、父親だけでなくギウ(息子)もそれと同様の気持ちを抱える瞬間も有った。その際に使われるのが山水景石だ。それは、財運を向上させるパワーストーンのようなものである。「美しいはずの象徴が凶器に変わる瞬間」にもまた強く興味を引かれた。初めはキム家(半地下の家族)にとって、パク家(豪邸に住む家族)は神様の様な存在であったと言えよう。彼らは神様を山水景石と同じように崇拝していた。就職先もお金も与えられ地下から引き上げてくれた存在であるからだ。しかし、その思想が突然にも、あるいはふつふつと、憎悪に変わっていく。

つまり、何が彼らを変えたのか、何故変わってしまったのか、について考えることがパラサイトについてより深く考える為の一つの手法だと私は思うのだ。

まず、この映画は社会派と言えるだろう。階段を下がり映像が下に行くにつれ下流階級、階段を上がり映像が上に行くにつれ上流階級の人間が映し出される。雨の日にも庭に居るドソンは先住民であり上流にも下流にも当てはまらない存在だろう。それらの階級はまるで光と影のように映し出される。光と影はモノクロバージョンで見ても感じられたのだから映像として素晴らしい。それぞれの階級に合ったそれぞれの生活が映し出される様は、まるで社会の縮図を見ているようである。誰もがその階級に見合った「フリ」「演技」をしているようにさえ見えた。特に、キム家の地域では大雨被害が起き被災しているのに、パク家では呑気に誕生日パーティーを開く様子はあまりにも対象的であった。同じ世界に生きているはずなのに、こんなにも違う日常を送っている。それはパク家・キム家両者において紛れもない事実なのだ。

そして事件はパーティーで起こる。ギテクがドンイクを刺してしまうのだが、それは臭いを嗅いで嫌な顔をしたというコメディ的要素が直截的な原因ではないだろう。正反対の環境、正反対の暮らし、正反対の日常、それらを含めた全てが無意識の差別であるからだ。光と影が同時に存在する瞬間、ずっと信仰していた神様が、自分の存在を受け入れていない(受け入れられない)事実を目のあたりにした。あるいは、信仰する「フリ」をしていただけの神様に自分の存在を否定された。差別され、否定され、陽のあたる世界から弾かれる影の気持ちを、半地下の家族は恐らくずっと感じていた訳である。「半地下の人間はどこまでいっても、どう頑張っても半地下の人間なのだ」という神からのお告げに反発し、影で光を覆う様に、ギテクはそれをかき消すのだ。この、事実に対する反発心というのがギテクの心に芽生えた殺意だったのではないだろうか。

加えて、彼らを見ていて思ったのは、才能が有るのにそれを上手く活かせる場所が用意されていない不自由さだった。キム家は皆それぞれの得意分野を持っている。持っているからこそ、そのアイデンティティを(嘘をついた偽物であったが)活かせたのだ。しかし才能があっても本質的には半地下の人間である。ギウは結局自分は自分であることから逃げ、同じ人種であるグンセを殺し、自分も死のうと考える。富と名声の象徴である山水景石を使おうと思ったのは、それらに対する嘲笑であるのではないだろうか?富や名声など綺麗な物ではなく、僕にとっては凶器にしかなり得ない。つまり、富や名声には勝てないということなのだ。本映画の中で彼はそれらを手に入れる側ではなく、それらに潰されてしまう側であった。どんなに手に入れたくても手に入れるまでの努力だけで力尽きてしまう、頑張れば頑張るほど光の遠さを思い知らされる。そんな恐ろしい存在がいつまでも彼から呪いのように離れなかった。持たざるものにとって、富や名声、それらは呪いでしかない。美しさでも何でもなく、彼らの存在を否定する凶器なのだ。

それでは、本映画はどれだけ頑張っても報われないものは報われないということを伝えたかったのだろうか?どこまでいっても半地下の人間は半地下の人間でしか無いと言いたかったのだろうか?いや、そうではない。私は、光へ向かおうとする時、何かを他人から奪うのではなく、自ら作り出す正しさを伝えているように感じた。ギテクの様に、目の前の現実をかき消すのではなく、受け入れ、光へ自ら登っていく。最後のシーンで、これからの「計画」を語るギウは事件を通して、自ら光を作り出そうとしている。これから富や名声を築き、家を買い、また家族三人で暮らす事を夢見ている。それがどんな理由であれ、彼の人間的成長と言えるのではないだろうか?

そして、さらに映画が訴えかけて来たのは、キヴが計画する最後のシーンを見て「こんなの夢物語に過ぎない」と思った視聴者に対する嘲笑である。何人かの視聴者は無意識にも、彼の環境から、将来の可能性/不可能性をジャッチしてしまったのではないだろうか。私もその中の一人である。世の中に溢れる無意識の選別がどれだけ多くの人間を傷つけているのか。差別にもなり得るその構図は社会全体に通ずる事であり、あらゆる場面で無意識を意識的に直していく必要があるのではないだろうか。いかなる存在であっても否定する社会であってはならないことを、思い知らされるのだ。

映画館で見たときは、社会の層に沿って頑張っても報われないこともあるのだとやりきれない気持ちになったが、二度目に観ると希望が描かれているようにも思えた。私は自ら光を作りだせるだろうか?誰からも何も奪わず、また奪いたいとさえ思わぬ心を持てるだろか?それは難しいことなのかもしれないが、光を望むことは、誰しもが出来ることなのだ。

 

 

 

信仰

 

アスファルトの上で揺れている影がゆらめいて、まるで波打つ海みたいに見える。その影の一番黒い一点に視線を囚われ、目線を逸らせなくなってしまう様な周囲の静けさ。空を眺めたいのに、私の中の何かがその気持ちに反抗して怒りを覚え、黒点に縛り付けている。周辺で揺れる波は緩く、ゆっくりと、ひだまりの中で眠っている。温かいのに冷たそうに、あるいは冷たいのに温かそうに、嘘をついているように。

見つめ続けたその先には何があるのだろうか。そこには混乱が待っているように思う。何の意味にもならない黒点は、ただの空洞であり、私の中の様々な感情を吸い取る装置に過ぎない。感情は映像と共に想起され、その度に間違いや後悔に気付き、多くの混乱を招くのだ。何度も同じ映像がリピートされ続けて渦巻く。目の廻る螺旋階段の様な状況がどこまでも続いていく。螺旋階段は、揺れる海の中へ沈んでいくのか、空へと昇っていくのか分からない。私は次第に黒点と同化し、何処に居るのか分からない気分になる。空/海へと落ち/昇り、海/空へと昇る/落ちる。自分の身体が溶けていき、存在が消えていくようだ。しかしその留まることを諦めたような浮遊感は、精神を和らげ、私に深い安らぎを感じさせる。まるでösterreichの音楽のようだった。

österreichの音楽は私に多面的な感覚を与え続けている。水底に沈んで行くような感覚もあれば、天国へ昇天して行くような感覚もある。眩しいひだまりに包まれているような暖かさと、これ以上無い程暗い場所に、たった独りきりで佇んでいるような寂しさも同時に存在する。両面的でアンビバレントな音楽は、時に不安定であり、常に繊細である。ピアノの旋律と同じくらいに滑らかで、指の動きが想像できるギターの音は、リズムを乗せて駆け回る。時折聞こえるバイオリンの音は優雅に水面を泳いでいる。その流れを汲むように深く響くベースの音。水面に反射する煌めきに似たピアノの音は光。マロックでありながら、高尚で、崇高な、賛美歌のような曲。

その神々しいメロディだけで感覚そのものになれるのに、歌詞が私にとっての聖書であるため、まだ逝く訳にはいかないという気持ちになり一文字、一文字を噛み締めて聴いている。

回らない風車、回らない鍵、ウユニの水底

子宮の町、母に成る病、造花の心

ありふれた病院光溢れて泣いている

間違えたまま産まれてきたね

産まれたこと恨むたび光の様に笑えたら

穏やかな地獄、綺麗な未来、祈りに似た言葉

象徴のように現れる言葉達。私にとってösterreichの音楽はあらゆるものの象徴だ。thecabsの歌詞も好きだが、österreichはそれ以上に象徴的である。日々の象徴、人生の象徴、だからこんなにも胸を締め付ける。

「象徴的」というのは、「私の細かな生活を、抽象的に、別の世界の別の状況で表してくれる言葉」というような感じである。私の中にある遠い記憶が、それに付随する映像ではなく、österreichが(メロディーや言葉で)作り上げる映像で想起されるのだ。その時の胸に溢れる懐かしさ。寂しさ、嬉しさ、あたたかさ。次第にその時の香りまで思い出させる。これほどに私の隙間に入り込んでくる音楽は、他には無い。聴く度に、美しさで満たされる。

2020年は、こんなにも愛している音楽を生で聴けた年だった。ライブの様子を記録した映画も観ることができた。それだけでなく、映画館でösterreichの高橋國光さんに会えた。理由も無く会える気がして、CDの特典についてきたポストカードとペンを持っていったのだ。本当はプレゼントも有ったのだけれど、それはさすがに気持ち悪いだろうと思い置いていった。ずっと貴方の作る音楽が好きだということ、これからも応援しているということを(感極まって泣きながらも)直接伝え、サインまで頂いてしまった。彼がどんな人間であろうとも、音楽への愛は変わないだろうと強く感じだ。とても嬉しかった。あの時のあの瞬間は、これからもずっと私の励みになると思う。まさに華々しき瞬間である。

 

Listen to ドミノのお告げ by österreich on #SoundCloud
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最近読んだ本

フライデー・ブラック ブレニヤー

i  西加奈子

ギリシャ神話入門 長尾 剛

セリー 森泉岳士

明暗 夏目漱石

 

 

海底

 

朝、教室に行くと、机の上に大きな貝殻が置いてあったことがあった。誰よりも早く登校する私は、それが何処から来たのか分からなかった。一人きりの教室で貝殻に耳を当ててみると、遠くの海の音が聴こえた。「あなたの海を考えていると此処とは違う場所に行ってしまいそうになるよ」という歌詞は私が大人になってから知った歌詞だが、教室の中一人で海の音を聴いていた自分に捧げたいと思う。貝殻を持ち帰り、何度も耳に当て、音を聴いた。次第に私はそれを小さな海だと思うようになった。私だけの小さな海。誰が机の上に用意してくれたんだろう?答えを知る前に私は転校し、沢山の別れだけを経験して、何も残らないまま大人になった。

 

変な時間に眠ってしまった後、早朝なのか夕方なのか分からない部屋の色をしばらく眺めていた。海に沈んでいくのか、空に浮かんでいくのか見分けがつかないような気持ちになった。この感覚になる事が良くある。その時、不安になるときもあれば、心地よくなるときもある。全ては体調次第なのだ。当たり前だけれど。今、体調が悪い気がするのはどうしてだろうか。昨日の夜は、誰も話さない沈黙の電車内に居た。何処かへ向かう途中なのか、あるいは何処かへ帰る途中なのかを、お互い知り得なかった時間は、とても無駄だと思った。花が枯れていくのは分かる。でも、私は人が好きなのか嫌いなのか分からない。私は今まで生きてきて、基本的に何の意味も無かった気がする。それは、思い出の有無や出会いの有無ではなく、心の中に居る自分だけの神様に、顔向け出来る事を何も出来なかった。というような意味合いである。やっぱり私には何も残っていない。 

時々、誰かが置いてくれたあの貝の事を考える。それももう今は手元に残っていない。引っ越しの作業の合間にきっと捨てられてしまったのだろう。もし、今その貝殻が此処に有ったとしたら、私は静かに耳をぴたりと寄せ、音を聴こうとする。でもきっと何も聴こえない。

最近夏が来たと思う。海に行って本物の海の音を聴くのはどうだろうか?自然の生音を聴くのも良いかもしれない。そう思うと、心の中の神様が、辞めておいた方がいいのでは、と言う。今、私の小さな海は、心の中に神様として現れている。

私は太陽が苦手なのだ。海の焼けるように熱い砂浜や、恐怖さえ感じる程大きく何処までも広がっている深い深い深い海。波、人々の騒ぎ声、夏。夏、夏。

耐え難い夏がやってきてしまった。

そう思ったのも少しの期間だけで、いつの間にかこの文章を書いている間に寒くなった。私の好きな季節だ。周囲の人への愛も、大きくなる季節。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝室

人を殺す夢ばかりみる。

もしくは既に殺していて、これからどうやって生きていこうか?と真剣に考えている夢。結局いつも、誰にも事実を言わずに全てを隠し通しながら生活していこうという流れになり、これから先の生活にとてつもない不安を抱えた気持ちで目が覚める。現実では人を殺してなくて良かったと心底安堵するが、その安堵が本物なのかどうか分からなくなる。これからどうやって生きていけば良いのだろうか?もし本当の自分が周りの人に見透かされたら?全て明るみに出て、一生を閉ざされたら?どうやって、生きていけばいいのだろう、そもそも、私はどうして人を殺してしまったのだろう。

私が殺人鬼なのは別の世界での話であり、現実の話ではない。現実での不安が夢に現れ、夢での不安が現実に現れる。こんな風に行き来するのには疲れた。私は夢を見たくない、しかしずっと現実だけを見るのにもうんざりする。現実が辛い。それは他人と比べてしまうから。自分が思うように生きられないこと、縛られた気持ち、抑え込まれた気持ち、全て諦めに繋がる。自分が思うように生きる才能やエネルギーが圧倒的に足りない。

また人を殺す夢を見た。確かクローゼットの中にあれは入っている。生々しい赤の血が足首から滴っていて、私はまたやってしまった、と思う。不安になる、これからどうやって生きていこう、もしこれが周りに知られたら?上手くやっていけるだろうか。もう、こうなったからには私の心は一生閉ざされたままだ。心の底から笑ったり、幸せを感じたりすることは出来ないだろう。永遠に近い暗闇に落ちていきながら、またもや目が覚める。音楽が聴こえてくる。サティのグノシエンヌ3番、1番、österreichのドミノのお告げ、天は神の栄光を物語り、いつの間にかまた夢を見ている。今度は現実の光景で、私は顔を洗い、コーヒーを入れ、テレビをつけ、鳥の映像を見ている。普段はこんな事をしないから、これは夢だと分かる。何かを構築したかった。物語が欲しかった。涼しさや、静けさが欲しかった。だから私は夢を構築した。現実から遠ざかりたい。なるべく長く、長く、長く、長く。

目を開けると立体的な風景が広がっている。というより、広がってしまっている。でもこの立体感は大切なものだというのは一応分かる。他者との距離、肉体の奥行き、様々な感触、長い道のり、交通機関、声色、全部私が今此処に存在するということを証明できる。

立体感の大切さに気付けた夜は、良い夢を見れるだろう。そしていつか、良い夢から戻れなくなった時、私は同時に死にゆくだろう。死には立体感が無い。だからいつも映像的で、原色で、影が無く、人を不安にさせる。

 

最近読んだ本

美しさが僕をさげすむ ウンヒギョン

破局 遠野遥

5月より 泉鏡花

貧しき人々 ドストエフスキー

愛と認識の出発 倉田百三

死後の恋 夢野久作

太宰治情死考 坂口安吾

姥捨 太宰治

白鳥 マラルメ

薄紗の帳 マラルメ

エロディヤット マラルメ

ソネット マラルメ

人工天国J.G.Fに ボードレール

最初の苦悩 カフカ

幽霊 江戸川乱歩

接吻 江戸川乱歩

不連続殺人事件 坂口安吾

斜陽 太宰治

愛と美について 太宰治

春の心臓 イェイツウィリアムバトラー

人生 夏目漱石

黒猫 ポーエドガー・アラン

小説の面白さ 太宰治

早すぎる埋葬 エドガー・アラン・ポー

モルグ街の殺人事件 ポー・エドガー・アラン

入梅 久坂葉子

掏摸 中村文則

王国 中村文則

さかしま ユイスマンス

 

中村文則さんは再読で、もう10回くらい読んでいる。

 

玲音

 

1話

少女が生きる世界はとても閉鎖的で現実感の無いものだと分かる。滲む文字や奇妙な色に染まる道路、目障りな周囲の声、噎せ返るような退屈さ。少し空想的なところがある(あるいは霊感や超能力)。その退屈さは生きることへの疑問や人間関係における自己の在り方から芽生えることもあるのだろうと思う。少女はそういった悩みを抱えやすい思春期であることが分かるが、少女の世界の見え方が歪んでしまったのは思春期が要因だけではない気がした。しかし歪んだ視界は明らかに彼女の生気を奪い、死へ引き寄せられながらも生に固執するアンビバレントな状態を与えている。同級生の死へ引き寄せられながらも、死に対する恐怖、トラウマを感じ、自身の喪失、日々への疑問を常に問い続ける。何かに対抗するように彼女は別の世界を探しているように思えた。それがプログラムの中にあるもう一つの世界=ワイヤードである。

 

2話

意識が加速する、というセリフのあとに音楽は減速したのが印象深い。少女は歪んだ視界の中、人との関係は希薄であるにもかかわらず「人は皆繋がっているのよ」というようなセリフを力強く発する。また、殺人者の男は「少女が殺せと僕に指示したんだ」というような思い込みをする。もしかしたら少女はどこかの世界の誰かにとっては神様のような存在であるのかもしれない。現実感のない現実より、現実感のある非現実が少女の生きる場所なのだ。

 

3話

ワイヤードとリアルワールドの乖離が見えはじめる。ワイヤード内の自分の存在が大きくなり、リアルワールドでの自分の存在価値が薄くなっている。ワイヤードはリアルワールドで感じる孤独は癒やしてくれない。だからこそ、孤独は深まっていくのではないだろうか。たった一つの救いですら現実には届かないのだから。

 

4話

osを改造して少女は人が変わったようになり、景色に原色が色づき始める。2話で語っていた「人は皆繋がっている」とは反対の「人は繋がってなんかいない」という言葉があり、孤独は増している印象。少女の「人と繋がりたい、繋がれない、繋がれてなんかいない」という感情の揺らぎは、孤独感の強い人間に多いものではないだろうか。ワイヤードの世界で繋がった人同士の世界がコピーされたように現実にも広がり、現実でワイヤード上と同じコミュニケーション方法を取ることでリアルワールドを汚染している。(現実の中でゲーム的な戦いをしたり架空のピストルで撃ったりする様子)。世界の区別がつかなくなっているのだ。一つの救いであったワイヤードが、現実に届いた瞬間である。しかしそれは救いではなく破壊に変貌する。

 

5話

「もう進化できない人間の限界を超え、さらなる進化ができる場所がワイヤードである」「ワイヤードはリアルワールドの上位互換である」と神様は少女に言う。しかしワイヤードのデータプログラムのせいでリアルワールドの事故が起こったことから、ワイヤードは「リアルワールドを汚染し脅威に晒す場所」でもあるのだと分かる。それを無意識的にも起こしたのが少女である可能性が高い。つまり、故意的に、間接的に、ワイヤードからリアルワールドを侵すことが出来るのだ。その事件が起きてから少女の姉もリアルワールドの風景に違和感を覚えるようになる。その原因は、身近に感じてしまった死や他人からもらった不吉な言葉、そしてリアルワールドでのコミュニケーションにおける「孤独」からと言えるだろう。この時点で、ワイヤードは現実まで届く完全世界に変わりつつある。救いとして届くのではなく脅威として届いたのだ。そして現実は現実から離れていく。現実が現実から遠ざかるというのは、人間の肉体が魂から遠ざかるという「例え」の一種であるように思える。

 

6話

ワイヤードの中に入り込んだ少女は声を発さず意識のみで他者と会話をしている。少女はワイヤード内でも自身の肉体をメタファライズして入り込むことができ、価値の高い、所謂神様に認められた存在である。少女はハッカー集団「ナイツ」と関わり、その集団が自分の居場所だと感じるようになる。現実から離れた居場所を見つけるのと並行し、ワイヤードの中では良くない動きが起こっていると少女は知る。

 

7話

少女はワイヤードの中から抜け出そうとし「ワイヤードに居る私は本当の私じゃない」という感情を抱くようになる。しかし「リアルワールドなんて全然リアルワールドじゃない」という気持ちも残る。物語全体には「ワイヤードとリアルワールドはリニアで繋がっている」「肉体が無くても存在できる」という考えがあり、少女は物語全体に惑わされワイヤードとリアルワールドの間で揺れている。そして、少女が仲間だと思っていた「ナイツ」は少女を操作し、子供たちを危機に晒す集団だったのだと知る。ワイヤードの中で、少女の存在が自身の意志と異なる形で大きくなり、他人に操作されていたのだ。誰かの悪意が一つの大きな意思を持った塊になり、少女へ帰依しているように感じる。帰依された少女は「ワイヤード内にしかない人格の少女」である。ワイヤード人格を持った少女が、リアルワールドに降りてくれば、リアルワールドの少女とワイヤードの少女との境界線が無くなる危険性がある。それは、現実や肉体といった常識を覆し、何もかもの存在さえ壊すことに繋がるのではないだろうか。

 

8話

少女は現実世界での「本当」が何であるのか分からなくなる。自分の知らない自分が、潜在的な意識を持ちワイヤードの世界で無意識に何かを引き起こしている。しかし、その潜在的な意識は本当に少女のものなのだろうか?他者の悪意が意思を持ち、空っぽの少女の内側に入り込んでいるのかもしれない。ワイヤードの中に入り込んだ個は全体に繫がり、同一化していく。同一化した全体が、ワイヤードに存在する少女そのものなのだ。少女はワイヤードの自分(全体)vsリアルワールドの自分(個)になっていく。

 

9話

人間の無意識は宇宙と交信し、別人格を作り上げていると論じた。つまり、宇宙であるワイヤードが多くの個から無意識を取り込み、そこで作り上げた別人格が少女そのものであるのだと解釈できる。リアルワールドに居る少女と、別人格の少女。しかし、少女はそれを否定する。「私はひとりしかいない、私は私である」と信じている。少女はワイヤード上で他者の無意識を繋げ「全体」になったのに。ワイヤード(全体)とリアルワールド(個)の2つの世界に居る自分存在を整理できず、混乱はなお続いている。

 

10話

死は肉体を捨てただけのものであり、ワイヤードの中でなら永遠に存在し続けられる。一人一人の存在が全体に溶け込んでいるからだ。誰もの永遠を補完するワイヤードは、アノニマス的な存在であり、意思を持った神になり得る。ワイヤードの中に溶け込んだ個は神の記憶を持てるのだ。「ワイヤードはリアルワールドを補強する存在でなければならない」と考える世界はもう侵食された。「ワイヤードはリアルワールドであり、リアルワールドを超える神であるべき」だからだ。その神は、ワイヤードを作ったのは、もしかしたら少女自身なのかもしれない。

 

11話

ワイヤードの自分(全体)vsリアルワールドの自分(個)は続くが、リアルワールドから遠ざかる自分を拒否し始める。どちらの世界にも引きづられ、境界線を破壊する。しかし、少女にも愛があった。埋め込まれた記憶の懐古によって愛を取り戻そうとする。「人間らしさ」「リアルワールドでの存在」を取り戻し、たった一人の愛する友人を救うため、過去を書き換えることにする。しかし、そんなことができるのは少女が機械に組み込まれた、肉体を持つソフトウェアだからだ。

 

12話

肉体は機能を言語化する。肉体が機械であるという物理的な制約、しかしそれが進化を止めている。そのために本当の姿を知る必要がある。つまり、肉体を捨てる必要がある。より力を大きくして進化するために、集合・全体化・同一化・一体化を物語は目指した。それこそが、人を繋げるために引き起こしたワイヤードなのだ。やはり少女は故意的にインターネット内で人の意識を繋げ、集合的無意識を意志にしようとしたのではないだろうか。そうして蓄積された情報は共有すればそれは意味の無いただのデータでしかない。すべてをデータにし、進化をする。そのような、多くのデータが蓄積されたワイヤードに肉体を与えた存在が少女なのだ。少女は「私が沢山居た」のではなく「沢山の人の中に私が居た」のだと言う。それは、全体そのものである少女の意識が、溶け込んだ個それぞれにインプットされていると解釈できるだろう。しかし、ワイヤードを作ったのは初めから肉体を持つ「人間」である事実から、ワイヤードは所詮人間の下に生まれるものであり、神になりえないものだという主張が生まれる。「ワイヤードはリアルワールドの上位互換である」のは、間違えた考えだったのだ。

 

13話

たった一人の友人の為に、自分の存在を全て無かったことにしようとプログラムをリセットする。少女はワイヤードの世界で人々と繋がりたいという気持ちがあったと思うが、肉体を持つことでリアルワールドに存在でき、ワイヤードの世界とは違った友人への愛を感じることが出来たのだ。少女は世界に初めて存在した肉体を持つプログラムであり、それがどのように成長し、形を変えていくのかを人間が実験していたのではないだろか。あるいは元々肉体を持つ人間であったが、現実で生きるのは難しいから別の世界で違う世界を生きようとプログラミングされた人間なのかもしれない。どちらの存在であろうとも、少女は世界をリセットし、皆の記憶から存在を消した。存在が無くなれば、今までの物語も無い。反対に、リアルワールドにいる人間の過去や未来に「記憶」を埋め込めば、その存在は始めから在ったものとなる。肉体の複製、記憶を埋め込み蓄積させることで変わる現在。「記憶にない人は最初からいなかった」というセリフはまさに、「過去を変えれば今は異なる」を意味している。ワイヤードの世界であれば、それが実現できるのだ。また「記憶は過去のことではない、今のこと明日のことも記憶である。」というセリフは、「未来を変えれば今は異なる」も意味しているのではないだろうか。

 

serial experiments lain

この物語は何を伝えたかったのだろうか。人間が人間ではない何かに成り果て、意思を持ちエゴを抱く物語や、同じ条件下で何度も世界を繰り返す所謂エンドレスリピートアニメ、ループアニメはこれまでも多くあった。そのようなアニメの魅力として、①人格を超えて芽生えるエゴへの共感②ループを繰り返すうちに成長する主人公③ループから抜けだけないスリルと恐怖/ループから抜け出せたときのカタルシスが挙げられると個人的には思う。しかし、このアニメでは具体的なカタルシスが無く、結局「カタルシスなんかなくて良い」という結末が残ったというのが最大の魅力であり、私が興味を持ったきっかけである。物語の最後をまとめると、

 

個人の思い出、共有されている無意識をつなげているだけのワイヤード(玲音)は、集合化した人の記憶を「リアルワールド」に繋げ進化を遂げようとようとしていた。しかし、蓄積されたデータはどこへ繋がるのかなんて分からなくて良いものなのだ。どこにでも流れるように偏在する、流れる、ただの概念になるべきなのだ。

 

というような考えになる。

玲音はこの1話から13話だけを過ごしているわけではなく、おそらくこれまでも何度もリセットを繰り返してきたのだろう。何度も繰り返してきた理由は、ワイヤード上で得た「他者との繋がり」「他者と共有した記憶」そのものを、どこかに繋げたかったからだと考えられる。それらの居場所を、いわば自分の居場所を玲音は探し、何度も繰り返し、失敗し、結局カタルシスを得られなかったのだろうと思う。

蓄積されたデータはどこにも繋がらない。それらは本来、肉体に保存されるべきであるのだと感じた。それは、人間がもつ心の機能を意味する。玲音の言葉は、心にしか留めることのできない記憶の暖かさを私に思い出させてくれた。人間のあらゆる感情がインターネットの海に流され、そのどれもがただのデータに成り果てる現代への警告でもある。データに成り果てた感情の居場所は何処にあるのだろうか?(何処にも無くて良いというのがserial experiments lainの答えであり問である)ビックデータに蓄積された行き場のないデータの死骸を想像すると、私は不意に悲しい気持ちになる。そのビックデータの中には私の記憶・思い出もきっと溶け込んでいるからだ。感情の置き場所を、記憶の保存方法を、もう一度見直したいと強く思った。

 

【現実と非現実の乖離】

本物の私はワイヤードには居ないが、リアルワールドは本当の世界では無い。本物の私がリアルワールドに居るとしても、そのリアルワールド自体を「本物」だと理解できなければどうだろう?本物の私が居るのに周りの環境や人生に疑問を感じる時、自分が今居る世界を本物だと認めることが出来なくなる。それは、人間に大きな苦痛と孤独をもたらす。こうして人間は現実から乖離し、非現実を夢見て、夢の中には肉体として存在出来ない自分との関係性から混乱をきたす。世界を汚染し偽物にするのは誰だろう?それは自身であったり他者であったり、言葉であったり、風景であったり、音楽であったりする。玲音の乖離の原因が何であったにせよ、私にも玲音の様に乖離してしまうタイミングが来てしまうかもしれない。そしてそのタイミングはとても身近にある気がするのだ。本物の自分が居る世界がどれだけ醜く、汚く、まるで偽物みたいであっても、どうか現実から遠ざからないように、心だけは無くさずにいることが現代には必要だと思う。

 

「きおくにないことはなかったこと

きおくなんてただのきろく

きろくなんてかきかえてしまえばいい」

 

という玲音の最後の言葉は、情報化によって人間が人間らしさを無くす恐怖と共に、情報化社会の希望も僅かに感じることができた。

肉体を持ったソフトウェアは、現代に現れたAIのことでもあるだろう。現代に現れた玲音は、私達をどのように繋げ、どのような社会を構築するだろうか?

その実験対象にされるのは、おそらく玲音ではなく、私達側であろう。

 

まだまだ書きたいことや書ききれて無いことがあるけれど、とりあえずここまで。serial experiments lainは解釈の余地が広く、また私にしかない解釈もある故、多くの人に開かれたアニメだと思いました。

 

 

 

平穏

 

私が壊れかけたころ社会も壊れかけている様に、風が吹いたころ海は轟音を鳴らし、ライブハウスの2階からプールの水が少しずつ滴っている。暗さや明るさは球体の中で起こる一つの事象であり、色々な関連が時間を一つの球体に纏める。過去の無い主人公が黒猫に帰依するのを真似たいと思い、私は空になる事ばかりを望んでいるような気がするが、その気持ちの起伏や動作にしても、一つに纏められているのだ。大抵の変化は一つの球体の中に同時に存在し、同時に存在しなければ変化そのものですらなくなる。火のついた蝋燭に天使が息を吹きかけ、蝋燭の火が消えるという一連の流れを「変化」として見たいのならば、天使の吹いた息を核として、火のついた蝋燭と火の消えた蝋燭は同球体に入っていなければならないということだ。死と生が離れたところにある場合、肉体の居場所が何処か分からなくなるような違和感を覚えるのは、変化であるはずの生死が同じ球体に入っていないからなのだろう。

3月の終わり、全身麻酔を核にして私は重い鉛のような球体の中に入り込んだ。体の内側は切り取られ、灰になり、埋葬された。初めに弱い麻酔を入れられ、その次に「"本格的"な麻酔入れていきますよ」と言われた瞬間足先がじんわりと重くなり、次第に崩れて溶けて軽くなっていった。重さの限度を超えて逆に軽く感じるような、冷たさの限度を超えて逆に暖かく感じるような、憎しみの限度を超えて逆に愛せるような、そういう相反する感覚が体全体を被っていった。死ぬ前最後に聞いた言葉が「よく顔が赤くなったりしますか?」だったような気がし、私は赤面症なのかもしれないです、としっかり答えられたと思う。

起きて、私の体は変化していた。私の体は以前の私ではもう無くなっていた。大きな眠気に包まれたが、このまま眠ったらもうこちら側に戻ってこられないのではないかと思い、必死に起きていた。眠りはまるで自らの変化をそこでぷつりと止めるような、一つの球体から外れるような逸脱感のある儀式だった。何かが起こったその後が自身に無いという状況が、死ぬということなのだ。私はそして気付き、死への恐怖と生への憧れや欲望が同時に球体に存在していた。最近観た映画に「欲望という電車に乗って墓地で乗り換え極楽で降りるの」「死の反対は欲望」というような台詞があったが、私はその一連の流れに居て、そして今それが壊れかけていくような気がする。

楽しみにしていたことがあったのに無くなってしまいとても悲しい。NewOrderのライブやösterreichのライブ、THE NOVEMBERSのライブ、喫茶「天国」に行く約束、観たい映画。このままそれらは成されることもなく、そしてこれからもう一生何も出来なくなってしまうのではないだろうか。これが最後だと知らされずに、少し時が経ってから「ああ、あれは実は私の最後だったんだ」と思い知らされるような出来事が、予告無しにやってきたような、呆気なさがある。今は何を信じる(信仰的なもの)べきなのかも分からなくなりつつあり、臨死体験について調べたり、宗教について調べたりしている。欲望が削がれていくのは、今の状況に慣れる為の自己防衛反応なのだろうか?恐怖ばかりが募り、それも炎のように激しいものではなく、ゆっくりと溶けていく長い蝋燭みたいな恐怖だけが、壊れかけた球体の中で変化をしていくことに、とても疲れている。

 

Listen to 幻肢 by österreich on #SoundCloud https://soundcloud.com/onlyifyoucallme/lzt90bqwu91w

わかっていた、分からずにいたこと

何もかもを返して祈りに似た言葉をまた

 

尊敬する大好きなアーティストの音楽

手術前も手術後もずっと聴いていた

そのアーティストへのプレゼントに、銀の鉄で出来た天使のモチーフを買う夢を見た。揺らすと天使が抱えている鈴が優しく鳴り、とても綺麗だった。

 

最近読んだ本

不連続殺人事件 坂口安吾

斜陽 太宰治

愛と美について 太宰治

春の心臓 イェイツウィリアムバトラー

人生 夏目漱石

黒猫 ポーエドガー・アラン

小説の面白さ 太宰治

早すぎる埋葬 エドガー・アラン・ポー

モルグ街の殺人事件 ポー・エドガー・アラン

入梅 久坂葉子

掏摸 中村文則

王国 中村文則

逃亡者 中村文則

アンダーグラウンド 村上春樹

 

最近は本を読むより映画を観ている

https://filmarks.com/users/ooooyuwaku